No.300~NEW
300 群れと個体に関する習慣的な感性 認識の習慣として、群れを見ると共通性に意識が奪われる。ある特性を持った群れ以上に認識が進まない。ところが、最近知った作家は、群れを描写しても個々の個体がその個々の生命を主張している。彼女は趣味的に作品を制作しているのだが、私は彼女こそ現代美術の最先端作家と呼びたい。一見すると素人の作と見えてしまうのだが、それは彼女の内面に我々が追い付いていないからである。
創造はコンセプトが最重要で、そこを最少の手数で表現しきるというのが私のポリシーだ。彼女はそれを実行している。
大多数の作家擬きは手数の多さを誇り、コンセプトは空っぽだ。画商などは手数と多作で作家擬きを評価する。商売人である画商はこれが全てで、コンセプトを評価する画商は皆無に等しい。
301 政治のベクトル 「その時世の良い子」ではなく「群れの短所を無くすこと」が第一 「今後~のような社会を創ります」などは、どうにでも言える。少数政党は実現可能な勢力がないにも関わらず、公約を掲げて憚らない。要するに政治センスがない。上水道を整備し、環境を守ると言いながら、汚泥処理施設の整備を公約とせず、巷は不衛生で悪臭に満ちているのに気付かないが如くである。右派・左派、急進派・穏健派、宗派の違い、経済構造理念の違いを自主張するのに汲々とし、社会という群れが危機に晒されていることに言及しない。軍備は対抗拡張しか考えず、経済はメディアによってバラ色の如く装飾され、教育水準は低下の一途。
「長所を伸ばす」という洗脳がメディア全体で演出され、「先ず短所に対処する」というベクトルは揉み消されている。
302 コラージュ アンド リストラクチャー Collage and Restructure アート教室設立 視覚芸術の初心者にとって、絵画用具、コンピュータグラフィックス、金属加工、木工などの道具を使用する技術的・技能的な障壁は、あまりにも高すぎる。
芸術の本質は「コンセプト」にあり、技術はあくまで手段に過ぎない。私は「コラージュに基づく再構築」こそが優れた手法であり、子供から大人まで誰もがコンセプト創出に集中できると確信している。
理論物理学におけるモデル構築、新たな社会システム、新たな感性、自己認識の再構築、新たな人間関係、異なる経済システム、全く異なる政治システム…これら全てがコラージュの形態であり、再構築の形態であると気づいた。
私は現代美術と直結したアートスタジオを設立します。
303 サンデルの似非哲学 「途中からの良い子」 「サンデルの政治哲学」<正義>とは何か 小林正弥著 平凡社新書 2010年初版を読み返している。「サンデルの白熱教室」、日本はで2010年に爆発的流行した。そこから感じていた違和感の正体が最近判ってきた。サンデルの論法は根本的な定義から出発してなく、あるいは、根本的な問いかけから出発してなく、ポピュラーな判断の場という形而下、つまり現状での認識状況のジレンマやパラドクスで人々の目を誤魔化している。サンデルが設定している場は表面的で、本来問うべき場に言及していない。すべてがこの調子。
304 存在に対する意識の越権行為 「戦争」「殺人」「暴力」「環境破壊」・・・ 存在に対する足場が曖昧な意識は何でもする。理由付けなど何とも言える。他者の存在を侵害しないことしか、その意識の正当性を証明する手段はない。
305 共有と共存 MAGA派は共産主義と同様に共有を主張している MAGA派活動の報道で「自分の価値観を多くの人に広めたい」という発言をしていた。彼にとっては「自分の考え」しか眼目になく、「他者の価値観・考え方」を理解する意志をまったく持ち合わせていない。その異常ささえ自覚していない。これらは「共有主義」で独断的で独裁につながる。アメリカにおける極右が「反共」をすぐに口にするのに、それが共産主義と同様の構造を持っているのだ。
一方、「共存」という概念は「異なる価値観」を持つ人々が、如何なる社会を形成するかを模索する指向性を持つ。「共存」の先にある「新たな社会構造」を模索するのが、頭の使い方、工夫する現場であろう。
「共有」は「社会資本の共有」から始まり、価値観の多様性を排除し、「単一の価値観を共有する運動」となり下がっている。両者とも人間性の貧困。「画一の共有」は独裁の正体。独裁は素性は強制。
306 pantomime-like person パントタイム的な動きをする人 最近知った90歳の女性。細身でシャキッとして頭の回転も速く知的。彼女の動作を見ていて「パントマイム」を連想した。多少コケティッシュな要素を含み、動作や発言がリズミカル。70歳ぐらいにしか見えない。おそらく・・・思考や感性も同様な動きをしているのだろう。
307 「中世の知識人」 ジャック・ルゴフ著 岩波新書30 1977年第一刷。私の本棚にあった。再読中。空白の時代を知る良い本だが、フランス人の書く著作は、なにか現実を直視していない。知識人・教会・貴族などには言及するが、政治に関する記述は極めて少ない。政治・経済・技術・商業などに対する同時把握が弱い。
308 既存をこねくり回す人々 創造に全く感性がない人びとは、既に実在している概念や感性に中で、脆い整合性を頼りにし、かろうじて自己擬きを堅持している。どこかで聞いた、どこかで観た、どこかに書かれていた、どこかで体験していた物事しか手持ちの素材を持っていない。それらを自己という範囲で加工し、あたかも確固とした自己を持っていると思い込んでいる。こういう人々の一生とは何であろう。知り得た時空がその人の世界のすべてとなる。それに自意識を足し合わせ、自己満足に停滞している。こういう人々を日々見るのは苦痛だ。
309 「実物のダイヤモンド」と「絵に描かれたダイヤモンド」が並んでいる・・・どちらを見ますか? 「写真に撮られた立体作品」と「実物の立体作品」・・・写真が同寸であっても、実物の立体が発する空間イメージは伝わらないであろう。
310 最も遅れている学問領域は倫理学 功利主義がはびこり、稚拙な自意識が氾濫し、問題意識は社会の表面から姿を消し、功利主義の要求にのみ反応する問題意識があるに過ぎない。人間の器は小さくなり、ナンセンスな事に膨大な時間を奪われている。この問題に正面から向かい合う「器の大きい人」がいない。自意識が暴走すれば全てが崩壊する。現在の人間の姿は絶滅危惧種を越え、絶滅確定種であろう。現時点における文化は何処にあるのか。ましてや芸術の所在は行方不明。美的感覚は何処へ行ってしまったのか。自己陶酔自意識と美は排他的だ。人類は獲得した精神の自意識という病によって消滅する。
311 福沢諭吉「文明論の概略」 主義主張に溺れず、自然体で現実を洞察する眼力 プラグマティズムに近い感じがしたのは正解のようだ。器が大きい。その思考方法は「Aと謂えども(いえども)Bとも言える」或いは、「現時点においてのみでは論を立てることは出来ない」、「我々は過程・経過の中にいる」等。
312 篠原一 「因果関係を説明できないから安全だ」とは言えない 1999年 第12回「地方新時代」市町村シンポジウム、特別分科会:自治体の政策構想力:未来制作を環境で語る:篠原一(東京大学名誉教授)。シンポジウム報告書の249ページで、篠原一氏は次の様に言っている。「科学というのは、元来100パーセント因果関係を説明できるものじゃないんです。因果関係を説明できないから安全だと言っている人もいますれど、そういう人は科学信仰を持ちすぎている人、古い近代の伝統を守っている人だと、私は思います」。
篠原一氏と直接の面識はなかったが一度姿を見たことはある。小柄で行政職員からは「しのぴん」と呼ばれていた。シンポジウムでの私の話しなどが載っている報告書は読んでいると思う。
私が以前、川崎市において地方分権の活動に参加していた頃の本を久々に読み返している。私は美術よりも地方自治分権に足跡を残している。美術界はツテがなければ相手にもされない。政令指定都市行政の企画セクションの方がフェアーだ。
313 ノーム・チョムスキー 「メディア・コントロール」集英社 2003 財界が牛耳る社会 選挙による大衆の排除
アメリカは民主主義の国ではなく資本主義の国。日本も同様。
314 目的論 ヘーゲル小論理集より
315 感性の出自・出処
316 殺人がなければ物語を創れない? オペラの悲劇、商業映画、テレビドラマ(刑事・警察・医者・犯罪・時代)・・・殺人がなければストーリーを創作できないようだ。 それを演じている俳優とは、どれほどの者なのか。歴史認識においても、殺人が表にでてくる。こういう歴史認識を何時までしているのだろう。大学教授?・・・?。
317 「春宵十話」岡潔、「人間の建設」岡潔・小林秀雄対談。 情操・情緒・感情・直感・・私の言葉では 岡潔の文章に頻繁に出て来るキーワード。どれも自分の言葉に変換しなければ理解出来ない。この四つ言葉に共通するのは、既存の概念や理論や理性や知性の概念を用いずに、自身の生命を燃焼させ、新たな発見までたどり着くかということになろう。
私なりに整理してみた。
情操:生まれた意識を他の人と共有する最初の合流形態。集団が生まれる時点での最初の共有意識。
情緒:原始的な記憶装置。感情という記憶。
感情:原始的な分類方法・分析方法
直感:上記の段階の意識状況が持つエネルギーを最大限に活かした納得力
これらの意識は後に現れる概念や定義や論法を直接に用いていない。自意識あるいは自己構成が生じる前の段階における人類の内面状況。
318 存在と不在 存在には周囲を不在にする力がある 存在と不在は同時に存在する。存在の如何なる力が、如何なる不在を必要とするか・・・この辺りのイメージは重要だ。何か、ブレークスルー出来た気がする。実に面白い。ここまで整理し得た発想に今迄気付かなかったのが不思議。何かを追いかけ続けるのは大切だ。(2026年1月28日夕時)
「実体」とは「存在と不在の両方で構成される」のだ。52年前(1973年)、美大4年生時、一気に多くが見えてきて卒業制作のテーマをしぼることが出来ず、その経過で模索した「ものの見方」。今はそれをハッキリと意識することが出来る。
この視点は、形而下・形而上というものではなく、また存在・存在可能性の問題でもなく、きわめて物理的な世界、自然界の法則の様に思える。高い山が集まればそれは平地であり、谷がなければ山もない。細胞はある環境を囲み込むと同時に、細胞外部を押し返す。存在は周囲を不在にする力があってこそ実在力を持つ。人間は存在のみを注視し、不在を伴う実在全体を把握していない。その結果、論理や感性は支離滅裂となる。これが不在を不在にしている人間の愚かさだ。存在と不在はたえず一組のセットである。存在に目が眩み埋没するのは、不在を認識していないからである。現状の人間の認識は半身不随となっている。ここを自覚できない文化・文明は暗い。