接点人物
 

塩原 勇 小学5・6年生担任。埼玉大学教育学部卒。優れた国語教育者。考える事を引き出す授業の連続。作文では構成や表現を工夫すれば、現実の再現性が全く変わる事に自分で気付いた。気付きを引き出す時間を生徒に与え、自身で工夫させる教育手腕。(中学・高校でもこういう教師はいなかった。詰め込み教師ばかり。)当時の授業のやり取りがそのまま活字になっている。おそらく録音していたのであろう。同級生の顔が浮かんでくるし名前も懐かしい。私の発言や詩も掲載されている。私のクラスは相当印象に残っていたのであろう。みんな生き生きしている。(埼玉県狭山市入間川小学校)
「心の教育 ことばの教育」 塩原勇 退任時に300部印刷したもの。他校の児童詩指導の事例も記載されている。偶然入手できたもので出版社に残されていた最後の一冊。手元に置いておきたい想いもあるが、社会資産として後世に残したいので寄贈した。当時、児童詩教育の小さな本(タイトルは「たいなあ」だったと思う)が塩原先生たちのグループで季刊発行されていた。「たいなあ」にはISBNコードが付いていたので、国会図書館に所蔵されている。私の二つの詩も掲載されている。
 
 
埼玉県立熊谷図書館に寄贈
 
長山?? 高校2年同級生。習字が上手。苦境の折々に声をかけてくれた唯一の人。私の不真面目さを今でも恥じている。
 
清原伸彦 高校3年担任。日本体育大学卒。水球や集団行動で著名。ウェブに多数記載あり。筋の通った威圧感はあるが、個々人の多様な能力を個々人に考えさせるタイプの指導者ではない。そういう指導者人格が形成された経緯を知る人はわずかだろうが、通学電車の中での一対一の会話から推察した私の根拠分析には自信がある。
 
井上武吉 武蔵野美術大学造形学部彫刻科卒。ウェブに多数作品写真等あり。彫刻家。公共空間作品多数。全身神経の塊。大学4年間、密度ある一対一の会話が多く出来たのは私の財産。「1973-A」は研究室に置いておけと言われ、団体展の招待券一枚をもらった。私の作風(問題意識)を正面から評価してくれた唯一の作家。その後の井上武吉氏(ぶきっつあん)に多少なりとも影響を与えた自負はある。(写真使用は関係機関から承認を得てます)
 
保田春彦 東京芸術大学彫刻科卒。ウェブに多数作品写真等あり。彫刻家。神経質だが私の作品は入学試験のデッサンから評価してくれた。彫塑を自分なりの遠近法で試みていた時、私の所で後から「それでいい」の一言。それ以上話さない。どうしようもない学生には声もかけない。心と心で会話が出来た。(写真使用は親族から承認を得てます)
 
今井克樹(当時:三省堂役員。編集者。川崎市民フォーラム主宰。)東京大学法学部卒。市民フォーラムにおいて、今井氏のレベルで会話できる人はほとんどいなかった。ヘーゲル「世界の名著」を読み返していて、思い出したことがある。二人で歩いていた時、今井氏が「あなたはフランクフルトだね」と突然言った。当時私は「量子論のコペンハーゲン学派」を読んでいたので混乱した。私の40代後半はこの程度。しかしこの頃から今井氏は私の存在性に気付きはじめたのだろう。一度ご自宅に伺ったことがあったが、蔵書の膨大さ、そしてと土門拳写真集など、質の高い書籍が目に飛び込んで来た。
 
須田春海(当時:市民運動全国センター代表世話人)。折々に御指導を頂いた。
 
公文俊平(当時:国際大学グローバル・コミュニケーション・センター代表)。東京大学経済学部卒。グローバリズム一辺倒のようだが、ある雑誌に小規模なコミュニケーションの場の重要性が語られていたので、アポを取り話しをした。「公文俊平=グローバリズム」ではない一面に接した。
 
竹内芳郎(当時:討論塾主宰)一時期参加。東京大学文学部哲学科卒。「フッサール現象学」翻訳者(自称哲学者)。討論塾で私は「市民の情報力ネットワーク」の話しを切り出した。竹内氏「そんなことは何処に書いてある。誰がそんなことを言っている」と一喝された。私は内心「この人は自分の頭で考える力がない」と呆れ、その直後退会した。
 
辻山幸宣(当時:中央大学法学部教授)。中央大学法学部卒。地方分権の論客。国会における法案採決前に行われる「参考人」(学識者等が法案に対し見解を与野党各一名が意見を述べる)において野党側参考人として発言したこともある人物。川崎市の地方分権推進研究委員会の座長をしてた方で、会議は公開されていて、その全てを傍聴した。シンポジウムで「一度腹を割って話してみたい」(p109)と言わさしめたが、当時の私にはそこまでする緻密な知識はなかった。昆虫は触手で何かの存在を知る。私は自分の触手で漠然とではあるが確かな存在を知覚していた。今はその存在が何かを説明出来る。法学部という処は多量の法律の重さを自身で支えるのに汲々としていて、他の法的足場を考え知覚する余裕がないのだろう。
 
上中裕紀 国際一級溶接資格保有者(1962~2008年12月25日・心筋梗塞で死去。46歳)溶接と製図と人生の恩師。
伝説的逸話:若くして日本最大のクレーン会社に入社し、某原発建設現場に派遣された。建屋が完成した時点で大型の装置を建屋に搬入してないことが発覚。本来は現場監督が判断すべき案件だが、皆が右往左往。上中氏が決断することになった。日本最大の移動式クレーンを手配し、完成していた建屋の屋根をぶち抜く指示を出した。当時若干26歳!!その判断力と決断力が評価され、京都大学卒社長のプラント設計会社に入社。次期社長に就任する目前にして斃れた。
柔らかな表情と仕草のなかに、静かで確かな内面と無限の人間性を宿してる。皆から慕われていた。私は無宗教だが「神以上の人格者」。佇まいが美しい人だった。
 
小林健一郎 指揮者。この方とは直接の面識はないが、25年程前、とある寿司屋で私は知人と音楽の話しをしていた。その知人が私の事を寿司屋の店主に「この人は演奏をしているのが西洋人か日本人かすぐに判る」などと話しをしていた。他のお客さんは一人だけ。面識はない。「小林健一郎に会いたければいつでも紹介しますよ」と言う。音楽関係者以上のことは判らない。どういう訳か、その後しばらく年賀状が送られてきていた。素人の私には敷居が高すぎ、面会しなかった。どこで、どんな人と接点が出来るか不思議な世の中。それも一流の人に紹介してくれるというのだから。今は面会したい。
「日本人の演奏は楽譜と多少の形而上だが、西洋人の演奏は形而上を求めて演奏し、楽譜と形而上を足場にして、更に表記されていない音楽のインスピレーション求めに集中している。作曲家の足場近くに迫る気力がある。この醍醐味は日本人演奏家にはない。」なんて、指揮者の面前で語ると喧嘩を売っていると思われそうで・・・躊躇した。
アマチュアの弦楽アンサンブルでも、作曲家の世界に引き込まれる瞬間がある。アマチュアの技量からは想像できない世界が感じられる瞬間は確かにある。それは、作曲家がイメージの芯を確実に掴み楽譜に落とし込んだ部分だ。一流の交響楽団から醍醐味が一瞬しか感じられなければい、それは演奏者の未熟だろう。