No.101~
 
101 続・動的平衡 続・No.97。「動的平衡2」は持っていて、1を読もうと図書館で検索したら「動的平衡・3」もあった。早速借りてきて「1」を読み始める。著者、福岡伸一氏は0.01%以上の人と感心。0.001%より稀な内面。
①「動的平衡」副題「生命はなぜそこに宿るのか」 2009年2月初版 (休みやすみ読んでも12時間で読めた)
②「動的平衡・2」副題「生命は自由になれるのか」 2011年12月初版
③「動的平衡・3」副題「チャンスは準備された心にのみ降り立つ」 2017年12月初版
今日午後から①を読みだす。直感が何故否定されるのか。学ぶことが何故重要なのか。・・・。『バイアスのかかった脳はその傾向に規制され、多くは妄想でしかないが、同時に可塑性という自由な扉も開いている。我々は世界を限られた足場から直感的にみている。直感が導きやすい誤謬を見直す、さらに直感が把握しずらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ、勉強を続けるべきで、それが私たちを自由にする・・・』。今迄読んだすべての本の中でベストな内容。
自分と同類・同種の感性を持つ人と初めて巡り会った。
『50歳後半に勤めていたプラント関連鉄工所で、私の半分に満たない工業高校卒で人間の腐った小番頭が、会社バーベキュー時、家族が来ているその目の前で、「大卒なんて何の役にも立たない」とホザいた。私以外に大卒はいないので当てこすり。無視し無表情で反応しなかった。この本に「学ぶことの意味」が明確に書かれている。私は当時こう言うべきだった。「そういう考えをしない為に大学へ行く」と。私が住んでいる市は「下請け城下町」、何処に行っても皆こんな感じ。』
遅蒔きながら、当分、福岡伸一氏を追いかける。しかし問題点も見える。「社会のもつれ」に対して機能していない。
 
「動的平衡」副題「ダイアローグ」 2014年2月初版 8名との対談集。ピカイチは鶴岡真弓しっかり考えている人は独自の表現をする。そして視点が新鮮。鶴岡・福岡対談から。福岡「動きへのリルペクト」。鶴岡「装飾文様の意匠は『生を飾りなさい。寿ぎ(ことほぎ)なさい。悦びのなかの生きなさい』というメッセージ」「内回りと外まわり、求心性と遠心性が同時に現れる」「荒ぶる生命の営みをあるがままに受け入れ、その変化や動きには、ブレーキをかけられないという生命観が、人類史にはありました」「なにかに対し、人間が『勝たない』思想を持つ重要性」「ケルト芸術の表現にはある種の『諦念』のよなものが感じられる」「渦巻文様の魅了は・・・非常に厳しい歴史的背景の観念と関係があり、同時にメメンント・モリ(死を思え、死を忘れるな)、の象徴では」「再生のイメージ」「アイルランドには無限の食べ物を産ましめる再生の大釜によって、生命力を永遠に循環させるという神話も伝わっている」「集団として命をつなぐ意識」「数百年前まで、人間は、『成ったもの』ではなく、『成りつつあるもの』を常に見つめていたのかも」「要素が二つだと、どうしても二項対立の図式になりやすい」「軸が三本あると、安定したバランスが生まれる」「三という数には、二本脚で立っている状態から、さらに一歩前へと踏み出す勇気、第三の可能性への希望も感じられるの」「古代ローマは、しっかりと覇権を握って、二本脚で立ち安定してしまったからこそ崩壊したともいえます。でも、そういう状態から第三のステップを踏み出せば、よろけながらでも前に進めます。覇権を握らずとも、生き延びられる」「渦が回り切ったとき、遠心力が求心力に変わる」「存在が極まったときにこそ、最もパワーが生み出される」「ケルト文化は・・・渦巻きやトリスケルが表すように『決してこの回転を止めまい』とする強い意志が感じられる」・・・以上、鶴岡氏の発言は、自分で考える力のある人の姿・内容と言えよう。
古代ローマに対する見解は塩野七生氏も真っ青になるであろう内容で素晴らしい。
記憶用メモ:引用 p185(ケルトと同じインド=ヨーロッパ語族に、モンゴルからトルコへ広がったチュクル語系の人々がいます。この人たちの観念のなかには、ちょうど『ジャックと豆の木』のように、地上から果てしなく伸びるものが、天に到達し、天地をつないで繁茂する「通天」という思想がある。しかしここで重要なのは到達して完結するのではなく、この地上から、何かが、どこまでも伸びていくこと。人は渦巻きだけではなく、垂直に天を貫くもののなかにも、無限の動的平衡を見ていたのかもしれません。)
22ページ程の会話を読み返していると、抜粋した箇所以外の処にも重要で面白い記述があるのに気付く。
 
井上武吉氏「my sky hole 97-4 天と地を結ぶ柱ふくい」は垂直の生命観で語っているし、室生山上公園には螺旋を多様している。螺旋階段作品も同様な言語であるが視覚と共に行為を導入している。植物である樹木をそのまま作品に組み込むのも生命を語りたいからであろう(ここでは抽象は行われず、自然をそのまま導入している)。
 
102 続・「動的平衡」ダイアローグ 平野啓一郎氏との対談。p67 平野:「小説は、そもそも主人公が個人という硬直した単位を生きるがゆえに生まれる苦悩の上に成り立ってきた・・・」。
私が小説を嫌う根本原因はここにある。硬直した単位を生きるがゆえに生まれる苦悩・・・こういう表現形式にウンザリしている作家と呼ばれる、あるいは自称する人々に共通する「嫌味」は、中心に「硬直した一人称」があるからだ。これが邪魔なのだ。問題意識に移行せず、いつまでも自意識を引きずっている見苦しい
 
103 言語の誤使用 言葉の発明は、外界や自己や関係性を把握する、あるいは確定する手段として発展してきたのであろうが、その言語は「純粋な認識」だけを目指したものではない。「支配の手段」や「独断的自己の確立」として発達してきたかも知れない。
現時点での言語機能の相当な部分で、言語は「一人称という主体を自己正当化するために機能している」ように思える。言語を利用する小説において、そこで行われているのは「言語の誤使用」と思える。言語は「一人称を正当化するため」にのみ発達したものではない。あるいは、支配の手段として発達してきた言語を、自己確立のために使用する処に無理があるのかも知れない。言語そのものが「思い違いのベール」に包まれている。この先にあるものは・・そう・・意識の誤使用
支配手段として育った言語は「支配構造をしている」。その言語構造を個人が使えば、結果はその血筋が現象する。個人の思考パターンが支配欲を帯びる。言語は十全な選択肢を内包して発展していない。極限的に言えば、言語の基本構造は権力の支配化にある。発言内容が制限されるよりもっと深層で制御され管理される。これらの結果、個人は何時の間にか権力者と同じ言語体系に引きずり込まれる。「異なる形式の言語体系」を準備して支配者にぶつけないかぎり、丸め込まれるのは明らかだ。「誤って造形されている一人称」。「単純な自己確認」。「自己陶酔」。「意識麻痺」。
 
104 方丈記 市古貞次校注 ワイド版 岩波文庫 50 新訳 1991年6月第一刷
久々に古文のリズムを楽しんでいる。「動的平衡・ダイアローグ」で玄侑氏が引用していて読んでみた。こういう随筆は、ここに一度は嵌まり込んでしまうと、他の発想が出来なくなる。鴨長明も読者も。ここに動的平衡がよく書かれているとしても、絡め取れれたイメージから飛躍するのは難しい。優れた記述であっても、そこには限定性もある。境地にのめり込むと容易に脱出できない。方丈記に動的平衡が「書かれている」と読めば、動的平衡は「動きの当事者」から退く。
日本人の特性か「それでどうするの意識」がない。ここに選択肢が生まれる筈なのに諦観して前進しない。実質、生きながら動的平衡が停止している。方丈記は現代風にいえば「四畳半隠遁生活ひとり言」。表現に動的平衡があっても、当事者は動的平衡に達していない。世にしたがへば、身、くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。」
 
「解説」が本書の価値。陶酔することなしに冷静。「なお底が浅く、視野も広いとは言えない」「隠者の悟りを開いたかの如き自分を通して語っている」「生半可な悟り」「長明は結局悟り切れず、安心立命の境地に至り得ない男」「この作品に思想的な深みを求めるのは困難である」「かれの中途半端な悟りは、中世の多くの隠者たちに通ずるものであり、中世人の共感する人間的なものでもあった、といえるかも知れない」・・・。賞賛するだけの解説は信頼できないが、市古氏はここを乗り越えている
 
わたし的に「方丈記」を評価する点は、花鳥風月・四季だけに陶酔することが少なく、社会の様相と共にそこに生きる多様な人々の様相にもしっかり目を向けている、このことに尽きる。更に文化的背景への目くばせもある。この点こそが並みの知識人と違う。社会・因習を批判的に扱う文学的手法は後世のそれと比較しても他の追従を許さない洗練さと完成度の高さがある。意識の覚醒度が高い。そして記述に美しさがある。視点の確かさ、表現構築性がしっかりしていて、そのうえ、美的表現の域に到達している。まさに才人のなせる業
 
105 玄侑宗久 無常という力 「方丈記」に学ぶ心の在り方 2011年11月初版
p59「人柄とは、事あるときの揺らぎ方」。名言だ・・が・・人は揺らぎの振幅強度と質的差異を未だ知り得ていない。
 
106 鶴岡真弓「ケルトの想像力」青土社 2018年3月初版
「動的平衡ダイアローグ」で初めて知った方。私の経験した美術史では、ギリシャから始まり、ヨーロッパアルプスの南側を西へ進んでいったストーリーだったが、鶴岡氏はアルプス山脈の北側を西へと歩んだストーリーに注目する。ユーラシア大陸の西端に位置するのがアイルランド。想像外にそこは断崖絶壁で大西洋の荒れ狂う海に対峙している。鶴岡氏は1971年頃からアイルランドに学び、今日に至っている。多層的な感性と思考力と表現力とを備え、これまで日本で流通してきた文明史を塗り替えている。アルプス南側に馴染んだ自分にとって、北側ルートの文明はデッサン力がなく不器用で硬直している様に感じていた。ギリシャのデッサン力とは別の世界。洗練された美ではなく、混沌としたその造形は、ギリシャアルカイクのような原始的な意識世界を感じさせる。ショーペンハウアーはインド美術は説明であり、美とは違うと言っていた。ケルト芸術もギリシャが発見した美とは異なる。その混沌とした感性は、時として粗雑さを残しつつ、またある時は繊細さに逃避しつつ、得体のしれないエネルギーを発する。しかし芸術文化は社会に飲み込まれている。
おそらく民族によって、あるいは文明によって感性の中の優先順位が違うのだろう。南ルートは身体的・調和的、北ルートは意識的・人工的。南ルートから見れば、北ルートは恣意的・作為的であり、北ルートから見れば、南ルートは頭脳がないように見えるであろう。北ルートは頭が身体を支配し、南ルートは身体が頭を支配している様に見える。ケルトは北ルート文明に属している。意志の想像力を信じ、意志の中で工夫しようとする。この二つの動きが交差すると新たな感性が生まれるのであろう。ここには「揺らぎ」があり「縺れ」もあり「暴走」もある。ベートーベンは北ルート的、モーツアルトは南ルート的、大バッハは両者を兼ね備えているように感じる。北ルートのワグナーは観念に暴走し暴力的。
 
107 「気・意」と「生死観」
「気」(抽象度が高い)・・・気持ち、気持ち良い、気持ち悪い、嫌気、むらっ気、やる気、空気を読む、気味悪い、小気味よい、いい気味、食傷気味、気のない返事、気のない態度、気力、狂気、気が違う、気が狂う、気候、気分、雰囲気、気晴らし・・・。
「意」(企て)・・・好意、敵意、戦意、意識、意図、意にかなう、意味・・・。
生れ出るということは「気と意」の場が現象すること。
「気と意」がなくなると死に至る。死は個々の「気と意」が消滅し存在しなくなる様。文明の崩壊はそこにあった「気と意」が崩れ消滅すること。個々人の死は「個として現象していた気と意」が消えること。個々人の死は実存世界から「その人の気と意」が無くなり穴があくことを意味する。「どこにでもある気や意」が失せても世界に穴はあかない。
人が死を恐れるのは「独得な気と意が消える」のを恐れるか、もしくは「自分の死後、世界の気と意に何の変化も起こらない」ことを恐れるからであろう。才のある人は前者の恐れを感じ、才のない人は後者を恐れる。前者は問題意識や独得な感性(成しつつあるもの、見出した質)の消滅を恐れ、後者は自意識(起点そのもの、成りつつあるものもなく、成したものもない)の消滅を恐れる。優しく表現すれば「ささやかな気と意」「慎ましい気と意」が消えるのを恐れる。対外的・対他者的に価値がなくとも対自的に価値のある生の消滅を恐れる。
 
108 「阿頼耶識の発見」 横山紘一著 幻冬舎新書209 2011年3月初版
三島由紀夫「豊饒の海」四部作 第四部「天人五衰」の最後に登場するのが阿頼耶識(あらやしき)。詳しく知りたくて選んだのがこの著作。解かり易く、且つ深い。煩悩のなかには「無知」があるそうだ。納得。私が持っているのは第六刷(2017年6月)なので、5年程前に読んだと思う。何気なく本棚を覗いて手にし読み返している。面白い。横山氏も才人
 
109 ゲーテの工夫 
「無知で問題意識が貧粗なのに自意識を支えとしている輩。お前たちは目障り。人間面をするな。お前たちは自然から与えられたものしか身に着けていない。頭は無知なくせに貧粗な意識で反論するのか。人間の体を成していない。それを自覚する能力もない。悪臭を垂れ流すのもいい加減してくれ。お前たちは人間の基準を満たしていない。」
ファウストのなかでゲーテが言うと、反感を受けないのは何故だろう。ここにゲーテをゲーテ足らしめている工夫がある。
上記の文章はゲーテではなく、私がゲーテ風に語ったもの。ゲーテを傍に置かなければ、読んだ人は私に反感をいだくであろう。ここにフクションとノンフィクションの決定的な差がある。フクションは現実に絡まない。ノンフィクション風の語りは現実と劇症反応を引き起こす。多くの行為がフィクションの世界に逃げこむ理由はここにある。現実に正面から対峙するにはノンフィクションの場で行為しなければならない。この様式が未熟に過ぎる世の人々は度胸がない怖がり屋。既存のパターンに自ら沈潜するか、フィクションの世界に逃避する。意気地なしで教養もなく知力もない。これが世人の引きこもり。
 
110 「NO」という思考 
~の否定として、「NO」を用いる場合、そこには予め~という存在がある。それは既存の概念でもあるし感性の場合もあろう。どちらも既存という点では同じで、「NO」は既存の存在なしでは何も否定できない。「NO」と言って既存から脱皮できたと思うのは「早とちりの意識」だ。既存の体系内での意識でしかない。考えている心算(つもり)だろうが、既存の価値体系にドップリ浸かっている。
概念の否定とか不在はわずかに姿を残す。感性を否定し不在にしたところで何も現れてこない。この違いは興味をそそる。
 
111 ジョン・サール 「行為と合理性」
アマリカの友人からのメールに書かれていた名前。ついで話の中にあった。私にとって初耳、ウィキペディアで調べた。
『Rationality in Action』、「行為と合理性」の話しがある。詳細はウィキペディアを参照。
サールは「合理性と行為」を対置し、内面から行為に至る段階に「飛躍」があると主張している。そのうえで、自由意志を考察している。私の場合「美意識と行為」を対置して考える。そこに「ギャップ」が存在する認識は共通していた。
私は合理性という概念を信用していない。それどころか、論理一辺倒な組立も信用しない。ここからは容易に正反対の行為が顔を出すからだ。それに引き換え、美という納得の精度は圧倒的に高い。倫理という概念をもリードするのが美意識だ。
何時までも「合理主義」を主張するのは体制的で保守的だ。これに絡め取られてはダメ
 
112 工夫の痕跡 個人を評価する場合、最重要なのは「工夫の痕跡があるかどうか」・・・これに尽きる。
百科事典の様な知識を持っていたとして、その人を評価できるだろうか。ここには主体の工夫はない。他者の工夫の痕跡があるのみ。工夫をしてない人が人名百科事典に登場することはない。愚衆として歴史百科事典に登場するかも知れないが、その確率は低く歴史から姿を消す。人類文化の蓄積に参加していないことになる。死は恐れるが不参加を恐れないのは何故だろう。蓄積に参加していれば死を恐れないと思う。工夫を知らず歴史に参加できない人々の恐怖に対処するための宗教などナンセンス「工夫の文明」を皆で探求するのが本筋であろう。死を恐れない為に必死になって工夫するのが「人間のメインストリート」工夫を知らない輩は思慮を欠き短絡的行為に走る
 
巷は工夫の痕跡を全く感じられない人々で溢れかえっている。彼らは個性だという。しかしそこにあるのは生まれてこの方、身につけたもの以外になにもない。「受動の局在性」が個々人の違いを生んでいるに過ぎない。しかも、受動の局在性が顕著になるほど「人格的な歪み」が生じる。「歪みを競って個性と主張している」のでは。無知の人ほど自己主張が強いと言われる所以。こういう人々の「騒がしさ」は人間の姿と思えない。「歪んで軽薄に過ぎる人間」が世界中にひしめいている。外見は「ほぼ人間」。実体は「積み重ねてきた人間のイメージ」から程遠く見苦しい。ここまで人間力が低下してくると自己を冷静に見つめる能力は間違いなく失われている。もはや人間とは言えない存在。原始動物・野獣に見える
 
工夫とは受動から飛躍し抜け出した何かの姿であり、これでしか個人を特定できないのだ
「わたしA」は「あなたB」と違う・・・どこが・・・? ハッキリ言ってくれ・・・わたしの工夫は何かを・・・。
深層で工夫している人にはスケール感がある表層に走る人にはスケール感がなく小手先人生
「工夫の仕方」を文明として模索しえる社会構造の探求・・・これが社会学のベストアンサー
 
113 人とは工夫をする場である 群れで生きている人。それを社会というならば、社会の原動力は政治でも経済でも宗教でもない。如何に工夫するか・・・これが社会のメイン機動力として表面に現れていなければならない。主体としての個々人の場においても、工夫の有無とその内容が問われなければならない。国家の国際評価基準には、政治安定性・経済力・医療福祉・教育水準・公共サービス・環境政策・基礎研究・・・様々ある。これらの項目の最上位に置かなければならないのは「工夫力」。そしてさらに「工夫の反映力」。社会はこれらをメインエンジン」としていなければならない。個人の場において、あるいは社会においても、メインエンジンは工夫力
 
114 「文豪はみんな、うつ」 岩波明著 幻冬舎新書 2010年7月初版
PR文:『明治から昭和初期に傑作を残した、偉大な10人の文豪。彼らのうち、7人が重症の精神疾患、4人が自殺。私生活にも言及し、過去の定説を覆した、精神科医によるスキャンダラスな作家論。』
① 夏目漱石 (1867~1916)享年49歳 (東京)帝国大学英文科 症状:被害妄想。死因:胃潰瘍・腹腔内出血
② 有島武郎 (1878~1923)享年45歳 札幌農学校・ハーバード大学 症状:執着性格・★。死因:縊死心中
③ 芥川龍之介(1892~1927)享年35歳 東帝大文科大学英文学科 症状:神経衰弱・統合失調症。死因:睡眠薬自殺
④ 島田清次郎(1899~1930)享年30歳 明治学院普通部 退学 症状:傲慢・誇大妄想・早発性痴呆。死因:肺結核
⑤ 宮沢賢治 (1896~1933)享年37歳 盛岡高等農林学校 症状:分裂病型パーソナリティー障害。死因:肺炎
⑥ 中原中也 (1907~1937)享年30歳 日本大学予科文科 退学 症状:幻覚妄想障害・★。死因:結核性髄膜炎
⑦ 島崎藤村 (1872~1943)享年71歳 明治学院本科一期生 症状:反応性うつ病・憂鬱・★。死因:脳溢血
⑧ 太宰治  (1909~1948)享年39歳 東帝大文学部仏文学科 除籍 症状:肺結核・うつ・★。死因:入水心中
⑨ 谷崎潤一郎(1886~1965)享年79歳 東帝大文科大学国文科 中退 症状:パニック障害・★。死因:脳梗塞後遺症
⑩ 川端康成 (1899~1972)享年73歳 東帝大文学部英文学科 症状:不眠症、睡眠薬依存。死因:ガス自殺
★:女性問題
 
115 「鬱の力」 五木寛之・香山リカ共著 幻冬舎新書 2008年6月初版
PR文:『迫りくる一億総ウツ時代。うつ病急増、減らない自殺、共同体崩壊など、日本人が直面する心の問題を作家と精神科医が徹底的に語り合う。「鬱」を「明日へのエネルギー」に変える新しい生き方の提案。』
読みながら付箋を付けた箇所の抜き書き。
p29~30、五木:『だから僕は、無気力な人は鬱にならないと言ってるんだ。エネルギーと生命力がありながら、出口を塞がれていることで中で発酵するものが鬱なんですよ。鬱の奥には「憂」という、外へ向けられるホットな感情と、「愁」という、人間の実存を感じたときにおこるなんともいえないものという、二つの感情がある。』『この時代に鬱を感じるということは、その人がとても繊細で、人間的で、優しい人間であることの証明なんです。「エラン・ヴィタール(生命の跳躍)」の出口が失われていることが、本当の原因だと僕は考えているんですね。』
p236~237,五木:『過去のいろいろな哲学者や思想家を見ていると、だいたい鬱のなかで考えています。鬱というのは、これまで外に向いていた目が、自分の精神、魂、内面に向けられる。文明の成熟という意味では、鬱は決して悪いことじゃない。』『たとえば人口が減ることだった、少しも憂える必要はない。・・・人口が減ることを前提に、未来像を選ぶわけです。どんなふうにダメージを少なくしながら、前年比で売上を減らしていくか。』『車の譬えで言うと、初心者が最初に関心を持つのはパワーなんですよ。トルクとかエンジンの馬力とか。その次にハンドリングに関心が移って、最後に大事になるのはブレーキングなんです。たとえばBMWの車は、制動をかけてスーッと減速していく、あの背中から引っ張られるようななんともいえない気持ち良さが、アクセルを踏んだときよりも魅力ですね。日本の戦後は、いわばアクセルを踏む快感だけでやってきた。パワーを誇示して、アクセルを全開にして走り続けてきた。これからは、成熟した文化だけが持ちうる、制御のよさみたいなものを目指すべきです。そういうことを大切にしていく経済学や政治学の理論を考えていかなければならない。』『登山もそうです。登るときは頂上を見ることだけにとらわれて、周りのことなどよく見ていない。むしろ下り坂が登山の醍醐味なんです。』対談での五木寛之氏の発言。上手く表現している。
五木寛之氏による香山リカ評(あとがき)。p247~『時代に対する好奇心にみちた発言者』『香山さんの言葉が、つねにある危険さをともなった綱渡りのような感覚を読む側にあたえる気配があった』『・・・危うさをはらんだ発言だけが意味をもつと考えたほうがいいだろう。そのクライシスを背負った香山リカさんの言説には、つねに同時代人を魅してやまないヒリヒリした鋭さがあった。』『香山さんは、予感を予感としては語ろうとしない。あくまで理性の限界を浮遊しつつ、それらの事柄を他者と共有できる言葉で語ろうとする。』
 
116 佇まいの美しい人  「Complication 2021-A」のタイトル。DeepL自動英訳機では以下のようになる。
A beautiful person with a beautiful presence. 素晴らしい存在感を放つ美しい人。
 
117 分析と抽象 ひとの成長の仕方を分類してみたい。
① 分析型タイプ・概念集積型タイプ
② 抽象タイプ・イメージ集積タイプ
とりあえず、この二つの根本的な相違をみよう。
① は詰め込み教育から始まり、既存の分析壁を身につける。その過程で不自然さや疑問性で既存の分類を揺さぶり、あらたな集合のプロダクツを作ることも可能だが、膨大な相互関係を処理できない
② は既存の分析の中で、失わるものを感じ、分析一辺倒に疑問を持ち、その路線の特に細部へと進むベクトルに不自然さを覚え、ここで路線の変更を決意し、分散した概念を大きな枠に抽象化する方向を模索する傾向を示す。
① の傾向は習慣化されているので、社会構造に近く、その近接性で、多数派の体質と言える。
② 一方、抽象化を進めつつ、様々な動きを抽象化しながら進む場合、細分化で頭がいっぱいになっている意識をより大きな、そしてより根本的な視点から抽象を行う。この結果、②のタイプはより大胆な展開を見せる
わたしが思うに、①タイプの人は記憶力が良いが、これに疑問を持たない為に、膨大な細部から抜け出せない。IQの高い人に多いタイプ。②タイプのひとは丸暗記を嫌う。既存の体系内での整合性・合理性に疑問をもつ。ここに抽象化の必要が生まれる。抽象化とは、分析タイプのひとのこじんまりした分析集合ではなく、意識を起動させる単位が少数でもキャパシティーが大きい。せいかくの異なる大きな塊を相互作用させるのが②のタイプ
 
子供の成長の早い段階で傾向は決まっていくと思われる。
①タイプの人のみが集まっても、俎上に上がるのは「コマゴマした単位」であり、ダイナミックな展開は起こらない。抽象をしらない人々の集団には飛躍力がない
②タイプの人々が集まると、面白い飛躍が次々に出て来るが、社会との関係、社会に対するアプローチが明確に姿を現すには、膨大な時間を要求される。もしくは短絡的に暴走する危険もある
上記の関係から、以下のことが言えよう。
①分析型の社会は細部に足を取られ、さらに個々人の固執するポイントが異なるので、問題を解決するシステムではない
②抽象型は深い抽象をすれば一気にことを成す。浅い抽象は既存価値観を考慮しないので現実とかみ合わない場合もある。
①の人は言う・・・現実はそんなに単純ではない・・・と・・・。
②の人は言う・・・抽象する能力とは、人の身の丈の処理能力に変換することである・・・と・・・。
 
118 人間は時間を止めようとする  福岡伸一著 「動的平衡2」より。p116~119を抽出しつつ再構成してみる。
p117「動き続けている現象を見極めること。それは人間が最も苦手とする認識であるだから人間はいつも一瞬、時間を止めようとする。」・・・「そこに見えるのは、本来、動的であったものが静的なものとしてフリーズされた「無惨な姿」である。・・・そこには見事なまでに『秩序が立ち上がっている』ように見える。」p118「それは単に「そのように見える」にすぎない。」p116「そのとき見えるものは何だろうか。」
一時停止を解除すると、対象はたちまち動きを取り戻す。」「先ほどとはまったく異なった関係性の中に散らばり、そこで新たな動的平衡を生み出す。」p119「やりとりは、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。」「世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。」
以下、私の私見。
『概念系の人』は、静止概念を用い、秩序、つまり論理を組み立てる。「フリーズされた無残な概念」を巧みに展開すると理論らしきもの」が現れる。これに時間性を持たせたところで、連続する現象になる筈もない。時間的な生命現象を認識のために微分し、それを積分しても生命現象は復元できない。微積分の限定的操作の痕跡は歪曲感として残る。死体を寄せ集めても生命は復元しない。概念系の人は質を問う力が弱い
『抽象系の人』は、時間のスパンを長めに設定し、大きな変化の傾向を把握する。ザックリした大枠で捉え、しかし、生命の動きを長めの時間に設定することによって有機的な感性が働くような場に持ち込む
『芸術分野の人』にも、概念系と抽象系がある。ここでは呼び方が少し異なる。「概念的感性」と「抽象的感性」という分類が一般的だろう。この分類に固執するつもりはないが、私は抽象力を重視する。
芸術は社会に対する責任の有無とその程度を問われる宿命を背負っている「静止概念系の人々とどう係わるのか」・「抽象系の人々とどう係わるのか」という問題は「世を生きていく術」として重要。
 
119 自己合理性 合理性という言葉には「客観性を主張したいという意図」が見え隠れする。合理性とは言っても、それは所詮「自己合理性」でしかない。図式で書けば以下の様になる。
(自己合理性)=(ナルシスト)+(サディスト)
上記の図式からエゴを消し去ると、そこに客観性が現れるように思えるが、何が現れるか見当もつかない。
「合理性という概念」は、「既に自己中心主義にドップリ浸かり切っている概念」なのでは・・・
自己合理性が表層化される場の違いから、頻繁に耳にする言葉が姿を現す。「パワハラ」、「セクハラ」~「独裁者」に至るまで。最近では「無知ハラスメント」が言語化されてないが横行していると思う。
∴(自己合理性)=(ナルシスト)+(サディスト)+(無知)
群れの場合、「合理化」とは、特定の勢力にとっての都合の良い論法を、正当化しようと躍起になっている姿
個人の場合、主体としての一人称の場において合理性は「最強の自己確認行為」であろう
 
犯罪者・独裁者・狂人・無知でも、その内面は合理性で回転している主体の内面で、意識を駆動するのに「合理的思考」が必須だとすれば、主体には「厳守しなければならにルール」がある。それは「自己合理性が行為を通じて他者に影響を与えることを抑制しなければならない」、これに尽きる。主体内の駆動力」をそのまま群れに対し適用してはならない。群れとかかわる場合、そこには「別の意識構造」「別の流れ」が必要だ。それは何か・・・ここが考え処
 
上記の図式は「自己合理性」をストレートに他者にぶつけている姿だ。他者を自分の自己合理性で踏みつけている。人類の文明・文化・習慣は、いつまでこの混乱を引きずっていくのだろう。この問題を整理できている人は何処にいるのか?
 
120 五木寛之 「鬱の力」より抜粋。
直木賞 p202~『・・・直木賞は一つの文学賞であるけれども、社会的制度でもある。人間はつねに物語に寄り添って生きていくものだから、小説に描かれたストーリーをモデルとして、「ああ、これでいいんだ」「これが、いまなんだ」って考えてしまうことがある。・・・・直木賞は小説に描かれていることを常識として社会に認めさせる働きを持っている。』
不合理 p214 『・・・死んだらどうなるかって言われても、誰も証明できない。「不合理ゆえにわれ信ず」というとおり、信じるというのはそういうことですね。』
和魂洋才 p228『日本人は明治以来、神の問題をマイナスして和魂洋才で来たけれど、本当は洋才と洋魂は切れない。明治時代に日本でいろいろ人を教えて帰っていった先生が、「私は日本に来てとてもよかった。ただ一つだけ寂しいと思うのは、日本人が地上に生えてる花の美しさだけを愛でて、地面の下にある根については一切触れな、関心もない、ということだった」といっている。』
減速の美 p238『登って下りて、はじめて登山は完結するわけで、そこまでが文化なんです。日本はこれまでずっと登ってきたんだから、これからはゆっくりとエレガントに下りていきましょう・・・。加速も文化だけど、減速もカルチャーなんです。その減速の美を、しっかり身に付けておきたい。』
 
121 ダウンサイジング 一人の人間が使用できる資源の量は限られている。販売されていて購入可能だからといって、使用してよいわけではない。20~30年前だったら、彫刻を制作するときに、この様な問題は意識されなかった。しかし、環境問題が俎上にのるようになり、環境負荷が意識されるようになり、一人の人間が利用可能な地球資源は計算可能となった。習慣的にイメージされている使用量は莫大だが、計算してみれば微量だと判る。2024年9月の現時点で、10メートルもあるモニュメントは倫理上、制作不可能となった。表現でもこの制約は受ける。人口が増加すれば、利用可能な資源量はさらに減少させなければならない。二酸化炭素や窒素だけの問題ではない。地球温暖化の制御は実質、機能していない。既存のパワーに押し流され、如何に機能させるかの現実的手段は未だ手に入れていない。この問題を正面から取り組めば、新たな経済システム、新たな政治システムが見えてくるだろうしかし怠っている。人間の弱さ・・・弱さゆえに滅びる
今我々は未来のないレールに乗っている
 
122 宮澤賢治 『文豪はみんな、うつ』(No.114)で宮澤賢治も取りあげられている。「雨ニモマケズ」は義務教育で必ず出会う。しかし、どう解釈したらよいか、誰しもが戸惑うのが本音であろう。評価する人もあれば、極端に嫌う人もいる。冷静に判断を下せる人は稀だと思う。いつも違和感を感じるのだ。上記の著作における記述を読んで、はじめて納得できた。その解釈は「分裂病型パーソナリティー障害」。幅広い人格ではなく、狭い人格形成の結果、多くの人格要素が欠落している姿。その結果、「そんなのは綺麗事だろ」とか「説教臭い」とかいう反応が生じる。最後に「ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ」で終わるということは、「私はそういう者です」と言ってはなく、「自分の身において実現されていない姿」あるいは「実現され得なかった姿」ということだ。これが多くの人達に拒否反応を引き起こす。実現され得ない姿であることは本人も薄々気付いているが十分な理解はできてなく未熟な発言となっている。「自分に出来ないことは言うな」と言いたい。(正確には取り上げるな。取り上げる側に作為がある。)
この文章が教科書に載るのは異常であろう。同様な傾向を持つ人は、この違和感に気付かない。義務教育において、「分裂病型パーソナリティー障害」の人格を、あたかも「人として目指すべき姿」と教育するのは何故だろう。人とはこんな綺麗事で語れる存在ではない。人はもっと幅広く、矛盾と疑問に満ちた存在だが、そういうベクトルを封印する欺瞞の教育
巷は「分裂症型パーソナリティー障害」の人で満杯ここにあるのは個性でも多様性でも正論でもなく不全そのもの。それを勘違いし声高に叫ぶのは醜態でしかない。
義務教育において教員のレベルが低すぎる。当時は(子供で)上手く表現出来なかったが、それでも「教員はレベルが低く、児童・生徒を舐めている」と感じていた。教室と職員室で態度も違う。教室ではビクついていた教員も、職員室では生徒を馬鹿にしたような態度をとる。宮澤賢治を教えるのに疑問を待たないそれよりも、社会に感じる違和感をどのように受け止め、どう工夫するか、というベクトルの話しをした方が、どれほど有益か・・・社会の不健全さは義務教育の段階で既に始まっている。文部科学省~教育委員会を信用してはいけない。有名校へ子供を進学させたい親の気持ちとは、そこには出来の良い教員がいるからだ。結果、子供はレベルの高い教育を受けられ、能力が開花出来る。大学への優れた受験校として有名校を捉えるのは狭量であり、親は幅の広い人格を備えた優れた教員に我が子を預けるものだ。宮澤賢治に我が子を預けたい親はいない。いるとすれば、その親も「分裂症型パーソナリティー障害」であろう。