Nn.61~100

61 ゴッホ 数日前のNHK「日曜美術館」でコッホの自画像を観た。今迄は世に言われている評価で観ていたことに気付いた。ゴッホの最大の特徴は圧倒的な意識密度の高さ。集中力や視点を通り越し、「意識密度が異常に濃い」。これがゴッホのゴッホ足らしめている所以・理由なのだ。「狂人・病人」とも言われ場合もあるが、正確には「孤高の精神密度」と把握すべきであろう。緩んでない。緩みを知らない。緩みを嫌う。緩みを憎む。緩みからの飛躍。ゴッホにとって「透徹した密度こそ芸術」なのだろう。「精神密度という造形言語」。日本の作家では棟方志功がゴッホに近いが、ヨーロッパ文化を背後に持ち、それと格闘するゴッホには遠く及ばない。棟方志向は個人の範囲に収まる。ゴッホは文明を視野に入れている。この差は大きい。日本で世界文明を視野にいれて格闘した美術家はいたのだろうか。思い当たらない。これが日本の文化の浅さだ。

62 量子論の乱読 図書館で量子力学関連の解説書を纏めて借り読みだしている。その中の一冊にある「シンクロニシティー」とは非因果的連関の原理。古典力学の決定論とは一線を画す量子力学的概念。量子力学における「もつれ」、「遠隔作用」等からの新たな論理体系。「ヒルベルト空間(抽象度の高い無限次元空間)を真の舞台として、そこから物理的な時空が派生するという見方で、量子的もつれが根源的な現象であり、一般相対性理論などが表す現実の相互作用はあくまで副次的な位置づけとなる」という考え方があった。また、デカルト座標は単一の原点を持つ3次元座標だが、ヒルベルト空間は無限座標。現実は無限座標であり、3次元、4次元は「制約された物の見方(パースペクティブ)」と考えている記述などは面白い。解釈の方向が低次元の決定論からでなく、無限次元空間から説明しようとする。言うまでもなく、低次元判断は高次元から見れが全く説得力がない。物理学と同様に人間社会あるいは人間の意識構造の自覚においても、低次元の論拠は矛盾だらけなのだ。低次元の住人は何の疑問・矛盾も姿を見せない現実解釈をしているに過ぎない。解説書では量子論の異質さは理解できるが、その関係を人の内面に関連づける部分には稚拙さも見られる。この本ははずれ。

63 「量子の海、ディラックの深淵」(天才物理学者の華々しい業績と寡黙なる生涯)グレアム・ファーメロ著 吉田三知世訳 早川書房 2010 今回図書館で借りた5冊の中では一番充実した内容。翻訳図書を選択する場合、誰が翻訳したかは判断基準になる。問題意識に没頭していれば、周りの人との関係に悩むのは無駄で、どう思われようが自分のスタイルで生きればよい。それが自身にとって一番自然な姿なのだから。(追記)p184から数ページ、「電子を記述する相対論的な方程式」も模索する過程の報告は非常に面白い。「演繹」から導き出すのに限界を感じ、離れ業的な「推論」をする。目指す方程式が「持っていなければならない性質」、「持っているはずの性質」、「まず自分が探し求めている理論がもっているはずの原理がどのようなものかをできるだけおおまかに把握し」、「どんどん厳密にし」、「最終的に数学的なかたちに表現する」・・・と続き「ディラック方程式」を完成させる。しかしその解には負のエネルギー準位が現れる(反粒子)。1928年(25歳)に論文発表。物理学会は大騒ぎ。1932年に陽電子が実験によって発見され、1933年にノーベル賞「原子の理論における新しい生産的な理論形式の発見」、(31歳)。スリリングな展開・苦悶・自信と不安・・・リアルだ。天才的と言われた人は多いが、その中でも超が付く天才は物事を追いかける手順がしっかりしている。著者の力量は並外れている。

64 秘密の多い女・秘密にしたがる男 この手の人には近づかない方が賢明だ。そこには過去が溜まってるだけ。

65 碑と追悼 慰霊碑、記念碑、追悼・黙祷、鎮魂、記念式典・・・これらの意識は過去を向いている。これらの構造物と時間を凌駕する「未来志向の造形や意識の時間」は何処にあるのか

66 唯物論と量子論 「弁証法的唯物論」「史的唯物論」「科学的社会主義」、これらは「その時点での物質概念・自然概念に左右される」。No.63の記述に、スターリンが締め付けを強めるにあたり、量子論を排斥し、科学を狭義に定義したと、ある。さもあろう。「自然把握の大転換」と「ファシズムの台頭」が同じ時代に姿を現す。前者では概念が揺さぶられ、後者では観念の絶対化が進む。探求心と社会形式は真逆に進む。何故だろう?純粋科学と権力は「反りが合わない」純粋芸術と権力の関係も同様権力とは実権と同義だ。純粋科学や純粋芸術は実権によって制御され、あるいはコントロールされ、さらにその生命力を奪われ、不本意に利用される。かくして社会は廃頽する。文化は権力に迎合するものだけが流通する。あるいは、現実に影響を及ばさない文化で今という時間を占領する。時代によって淘汰されるにしても、今という現実においては実権者なのだ。地に足が着いていない欺瞞の酔い。マルクスが量子論を知っていたら史的唯物論はどういう定義になっていたのであろうか?

67 バイデンさえ後継者を指名できない  2024年7月9日。バイデンさえ後継者を指名できず自分にこだわる。独裁国家が民主的な国家に自律的に移行する可能性はない。権力者は内容を問わず自己肯定から抜け出せない。自意識が問題意識を支配している。権力を持つ程、自己に関する論理構成は支離滅裂になる。内向し他者は対象となる。自己内他者不在。
 
68 デュラックの宗教心 続No.63。p327より。デュラックは自分の宗教は「世界は向上しなければならない」ということだけだと言っていた。(以上)
宗派に属してなくとも、極めて抽象的な宗教心は誰もが持っているであろう。そこには、もはや伝統的な宗教という概念はなく、デュラック流な表現として「世界は向上しなければならない」という心情が言語表現としてではあるが語られている。この表現も抽象的であるが、そこに神は登場しない。古来、神が登場するのは一種の比喩であり、核心にある意志は「世界は向上しなければならない」という感性なのかも知れない。「道具立て」としての神が、いつしか「人格化」「意識を持つ像」にされたに過ぎないのでは。こう考えれば、現代において宗教的心情は別の言語で指示されなくてはならない筈なのだ。デュラックの表現は「抽象度の高いある種の精神」を表現するにおいて、より正確と言えよう。
 
69 人間の特性 自己の姿を自覚できないのに自己を肯定する動物。同時に他者が一人称の私をどう思っているか認識できない。群れの中での自己存在の位置づけが出来ない。自意識は他者の存在に左右される。自己内他者の有無も同様。他者が見えない状態は異常であり、自己は自己の存在しか認識してないことになる。認識しえない存在は不在となり、唯一確認しえる自己を肯定する。自己肯定とは他者が不在化された意識運動。
 
70 他種との意思疎通 人と他の動物との関係は一昔前では考えられないほど変化している。身近は例は犬との関係だ。
犬種にもよるがコミュニケーションが成り立つ。犬の方も人の内面をうかがう能力が向上している様に思える。最近「メダカ」と会話できることに気づいた。水槽の中の3匹・・・この状況では人と会話する。多数のメダカは群れと同期し人とは会話しない多数の状況は同期を発現する」・・・人の社会と同じ。個別化された動物は同種の群れを知らない。他種との関係が環境となり、他種間コミュニケーションが発芽する。
ポピュリズムの起源は他者不在の内面しか持たない人の分断された個の群れが引き起こす同期。個性のない集団に同調していても自分では強力な個性を持っていると勘違いする。最も手軽に手に入る個性は無個性。それは「裸の自意識」。
独裁の起源は個人の差異を認めず同期する群れを作り出す処にある。(未整理の文章だが、多重思考のメモ)
 
71 市長選 任期満了の市長選挙。現職市長は引退。新人4人(男性3名、女性1名)。女性候補の市議のポスター「女性市長を」・・・。もし現職市長が女性で立候補していて、男性候補が「男性市長を」と言ったら「セクハラ」と騒ぎ立てるだろう。何故、女性候補が「女性市長を」と言ってもセクハラにならないの?・・・幸い女性候補は落選した。
 
72 政治権力者の知能 政治家の知能指数は偏差値で40~60以下で高くない。利権に目が眩めばこの数値は更に低くなる。その程度の人が「法を盾にして」優れた人々が発明した科学技術を如何に使用するがを決める。政治・経済の専門家(?)のレベルは政治のレベルと比例する。これらの専門家は権力に迎合するしか収入の道はない。
 
73 一人称という神聖な場 感動という言葉は抽象度が極端に高い概念で、何にでも述語として付けられる。或る意味「中身が確定してない箱」だが、空間が在ることは示唆する。狭い経験や知識だけで生活しているのに「感動した」と言う人は沢山いる。「感動とは一人称で検証される意識」で、感動が伝わったとしても、相手はやはり「一人称」として反応している。他人に代わって感動する事は出来ない。一方、「感動を共有する」という常用句もあるが、これは疑わしく怪しく煽動的。そうすると、感動とは、現場性、同時性を何かと共有していると感じた処に顔を出す「一人称としての触覚の満足度」の様に思わる。この様に「一人称」を強調すると、では作品とは何かという疑問が出て来る。比喩的に言えば「コラーゲンは分子量が大きすぎて肌からは吸収出来ない。腸でアミノ酸に分解し、体内で再結合させなければならない」。「作品という一人称」が他者に吸収されるには「一人称作者と問題意識に分解可能な形態でなければ作品の意図するところは相手に伝わらない。自意識が表面に出てないと納得しない作家は多い。私の一番嫌いなタイプ。露出狂。
「一人称とはもっと神聖な領域」だ。一人称の場が崩れていれば、健全な二人称関係は構築できない。この手の人は三人称として評価されれば、どんな結果になるか「言わずもかな」だ。
 
74 美とは何か メールでの質問あり。「美の実在を証明するにはどうしたらいいのか教えてください。やはり、感動でしょうか。?」・・・。「No.22 頭の瞬発力」とも関連があるし、「ダニエル・カールマン著 ファスト&スロー」とも関連している。感動から説明すれば、こればファスト反応に分類される一瞬の心の動き。一方、美は鑑賞と創造では速度が異なる。 鑑賞はファスト、創造はスローなのだ。ここまでは前段。以降、本題。
 
我々が住んでいる社会環境、人間の手垢にまみれた世界は汚泥のごとく混迷している。決して清流に住んでいるのではない。現状の環境に疑問を感じなければ美意識自体存在しない。汚泥から抜け出せない状況からの脱却として美が意識される。絡め取られている状況からの脱出は簡単ではなく、スロー、つまり「もがき」を伴う。美は直感で創造できるものではなく熟慮から生まれる。その熟慮のベクトルに先に見える存在可能性が美という光であり、しかしこの段階に至っても、光の正体を全て把握できている訳ではない。したがって、そこでの美の姿は明瞭な輪郭を持っているのではなく、美のベクトルは点を指示しているのではなく面積・体積の場を指示する。つまり「関係性の塊」としてのみ把握し得るのだ。それは集合体なのだ。「未だ実在しない集合体」が美の正体であろう。「美の実在を証明するには」という問は、ファスト思考、つまり短絡思考であり、回路が短絡ショートした時に発する閃光を求めているが如きだ。短絡すれば思考回路は消滅する。
感動とか直感とかいうイメージは、実は何かが破壊されているサインだと私は受け止めている。警戒警報音が鳴り響く。そこではスロー思考の積み重ね回路は機能しない。煽動という行為も同様に人々に考える時間を与えない。もっとひねくれた観方をすれば、直感、感動が真理だというのはプロパガンダで、大衆が考えることを阻止する
「未だ実在しない集合体」シンプルな数式や表現などに到達すれば、美は姿を露わにするであろう。それは膨大な試行錯誤の末に到達したものであり、鑑賞者(受け手)が感動とか直感とかいう意識では容易に到達しえるものではない。直感や感動は本来もっと重厚な感性の筈だここに厚みが無くなると直感や感動の反応はキッチュとなる
未だ実在しない集合体の存在は証明不可能なのだ。存在可能性を証明できるのだろうか?
実在態となって初めて証明できたことになる・・・ということだろう。
 
後段:今迄、「感動、直感」を口にする人を大勢観てきた。私がそこに見出すのは「そう言っている人の限界の姿」だった。解放系の意識ではなく、そこで吐露されているのは閉鎖された感性や思考だった。感動とか直感とかいう獏としたものを盾にした「空威張り」にしか聞こえない。もっと素直に自分の不全さや不足さを口にすべきだと思う。
「感動・直感」は「天井言葉」「屋根言葉」だ。その下に宿れば当座はしのげる。自分は限定領域の住人でしかないことに気付くべきだ。「感動・直感」という出口の先に希望を見出したいのは理解できるが、その扉は自己という限定された部屋に取り付けられている・・・この自覚が大切。一人称ですべてが片付くわけではない。他者との関係を組み込んで考える時、一人称的意識だけでは関係が成り立たないことに気付くであろう。
 
75 絶望的論理 「量子の社会哲学」大澤真幸著 2010 p161~ 『政治的決断主義・・・ナチス体制を論理的に正当化したとされる政治学者カール・シュミット・・・シュミットの政治的決断主義によれば、主権者とは、例外状態(非常事態、有事)において決定を下す者のことである。主権者としてイメージされていたのが、ドイツ大統領や、あるいは「総統」と呼ばれたヒトラーであったことは間違いあるまい。政治的決断主義が、たとえば、ナチスが政権掌握の翌日に発した政令・・・帝国憲法の一時的な停止を命ずる政令・・・を基礎づけるのに有効だったことは、容易に理解できるだろう。』
 
これだけはっきりと言われると、生きる気力を完全に削がれる人間の意識はかくも「デタラメ」なのだ。これを論理と言うなら、論理はないのと同じ。「世も末」どころか、堕落の極み。この状況はナチスの時代だけでなく、2024年の現時点においてもこの形態はそのまま実在している。
 
故意に例外状況(非常事態、有事)を作り出せば独裁が正当化される。こんなバカバカしい世界に我々は住んでいる。
追記:プーチンは「世界は不安に満ちている」という問いかけに「私が不安にさせているのだ」と答えた。
 
76 プライドという腐敗 古来の常套句「腐っても鯛」。死んでいても腐る前は鯛? 水揚げされた活魚は鯛? 皿に盛られた刺身は鯛? 塩焼きになった姿は鯛? 骨だけになっても鯛? ・・・。
 
77 美とは 私の中での定義に過ぎないが・・・美とは佇まいとしての自然な姿。人を身体と意識に二分して考えた場合、身体は自然の法則から生まれたといえよう。一方、意識はハードウェアー的には身体と同じルーツを持つが、意識はフソトウェアー。美は自然に根拠を置く姿に対して抱く感情。風景や花々等に美を見出す時、人は感動といわれる感情を覚える。人の意識はこういう佇まいに到達してない。人として相応しいナチュラルな佇まいとしての意識には程遠いというのが現在の人の姿だ。意識の佇まいは固定しえるものではなく、退廃もすれば進化もし得る。新たな佇まいを見出すことは可能であり、このアプローチこそ創造という名に相応しい。しかし意識は未だ未熟なのだ。現状の人の意識は美しさから程遠い。
では直感をどう定義するのか。直感は意識から生まれる。ここに直感の限界が姿を現す。直感は意識の子だから。意識に無意識を含めても、自己内にない運動は生まれる筈もない。直感の説得力のなさは意識の未熟さにある。限界ではなく未熟。直感に美が宿ることはない・・・と私は考えている。直感で美を捉えることは可能だと考えるのは、自己の未熟さに対する自覚の欠如であろう。優れた意識を備える人の直感は多少信頼できる。何故なら、意識が健全だから。健全とは意識の佇まいが整っている姿。意識の佇まいが美しいから。
ごく一般的な意味の自然に感激・感動することは非常に多い。ところが感激・感動・感銘を受ける人が如何に少ないか、これをもっと素直に受け止めるべきだろう。
 
78 (50%+50%)としての人間 人間の身体を含めた膨大な生命体、あるいは無機物も含め我々を囲む自然は、それぞれ「自己を100%発現している」。しかし、人間は身体だけの生き物ではなく、意識・精神・感情・知性…空間を持つ。人間の100%とは、「身体50%+精神50%」としての100%。この第二の空間を身体と同様50%の領域と査定すれば人間は100%の空間を保持する生命体と言えよう。身体はそれなりに50%を維持し生命を支え、更に意識領域に存在基盤を与えている。意識の50%が十分機能していない場合、そこに姿を現すのは「100%人間」ではなく「50%+0%人間」「50%+10%人間」「50%+20%人間」・・・と言う具合に未充足な人間だ。この「未充足」が醜いのだ。我慢出来ないのは、内面充足度の低さとその質の低さを自己認識していない状況だ。
人は「100%人間」として自己認識し、あるいは他者評価もしたがる。しかし内面の50%領域の能力は正規分布している。人間とは(身体50%+内面正規分布)の合計となる。
観念論は100%として自己認識する。これほど滑稽なことがあろうか!! 自意識しかり。
正規分布が全てポジティブの領域とは限らず、全てがネガティブの領域も場合もある。もしくは同時に両者が共存する。山型のグラフは谷型のグラフも伴う。良さも程々、悪さも程々」、この同時所有が極一般的な人の姿であろう。恐ろしいのは天才も存在するが、同じ確率で極悪も存在することだ。ポジティブ領域だけ意識するのは能天気で現実離れしている意識領域を持つ生物としての生物の宿命として、希望と絶望は同じ確率を示す。しかし、実在力を獲得しやすいのはネガティブのベクトルだ。現在の世界を見渡せば、絶望は希望を凌駕している。短絡的な意識からは先ずネガティブが姿を現す。短絡的なポジティブは「無為」でしかない。「有意・有為」と言える程の実在は姿を見せない。私を含めほとんどの人はこういう日常を暮らしている。「生きる為」「存在しえる為」に意識領域の質を留保している。
最悪のシナリオはネガティブを放置すること。ポジティブを指向しながら、身近に溢れるネガティブを放置すれば、その生き方は将に無為そのものとなる。ネガティブに対し如何にアプローチしているか・・・これがその人の価値を決定する。
 
79 「超ひも理論とはなにか」 竹内薫著 BLUE BACKS(B1444)初刷2004 15刷2011。気分転換に引っ張り出して久々に読み返している。竹内薫氏の書作・翻訳本は10冊以上持っているだろう。1960年生まれ。氏が書くものは解かり易い。イメージがどの程度読者に伝わっているかを常時自覚しながら文章を書いている。抽象にそれなりの客観性を持たせる術は超一流。 秀才中の秀才。世の中、こういうレベルの人がリードするんだ、と痛感する。
 
80 「世界は2乗でできている」 小島寛之著 BLUE BACKS(B1819)初刷2013 6刷2023。アマゾンで購入しレビューを書いた内容。「記号理解≠意味理解。かって、失敗学の畑村洋太郎氏が同様の本を出版するとアナウンスしたが未だに出版されてない様だ。そんな中で本書を見つけ、地元の図書館に蔵書がないのでアマゾンから取り寄せた。学識のある人には二つのタイプがある。自分の言葉で思考展開できる人と、もう一方は既存の記述を羅列するタイプ。この著作は後者。」★3つとしたが社交辞令。エッセンスを自分の言葉で表現し得ていない。要は、思考展開の記述がない。
 
(追記)著者は非常に不器用であることを念頭に置いて読めば、それほど腹を立てなくて済む。「あとがき」に本人が記述している様に、「ぼくは、数理科学全般に関心を持っていますが、物理学はその中でも最も苦手としてます。・・・」とある。???。さらに「自分なりの感受性と自分なりの問題意識で・・・」とある。???。著作は「自分なり」ではダメであり、読者の受け止めをたえず意識しながら書くものであろう。著者は自ら本著作の欠点を吐露している。ここを自覚してない、すなわち、不器用なのだ。
 
81 ブーメラン Yahoo Japan  2024年7月23日 AFP=時事 配信記事タイトル「トランプ氏、バイデン氏撤退で高齢批判がブーメランに」。決して本質的な記事ではないが、ポップなジョーク。大衆文化。政治がこういうレベルで語られるのは嘆かわしい。
 
82 遠雷 2024年7月22日19時40分頃。15キロ程遠方で雷が煌めく。発生地点からそこまでには薄雲が斑模様状に広がっている。雷鳴はほとんど聞こえない。稲妻の閃光は一秒にも満たない瞬時の光景。しかし稲妻本体は見えず、周囲の雲の背後で光っている。幾重にも重なった周囲の不定形の雲が浮き出る。闇で隠されていた薄い黄色やオレンジ色から茶色や灰色の複雑な輪郭やグラデーションが影絵の様に出現する。こういう光景の絵画はない。絵画は自然現象から見れば冗長だ知覚限界の一瞬の体験は表現できていない
人類が未だ明確な表現形式を持たず、「驚異と脅威は同質」だったに違い時代は「恐怖と畏敬も同時に」姿を現したであろう。前史近辺から超越的な現象を受動していれば、そこから神とか宗教的感情が芽生えるのは極自然な反応と思える。人が最初に対象としたのは圧倒的な自然現象だったであろう。恐怖感を伴う刺激は生命の危機を意識させる。そういう緊張感の体験は精神回路を強烈に刺激する。「驚異・脅威・恐怖・畏敬」体験は「死」と密着しているというイメージが固定する。宗教的感情は死感情からの跳ね返り。極言すれば、意識は何時も死から呼び出されるこれが人間の原始感覚であろう
時代が進み、現在という場においても、高度に発達した文明と形容しようが、多用な死(自然被雷死・人為的文明的殺人)は身近にあり、分離し難く感じる根源的な感情構造なのだ。
21世紀においても、人の思考や行為には「死への恐怖」があるだけでなく、死を(殺人を)正当化し選択肢とする古層から脱皮し得てない。脱皮どころか、益々殺人を正当化する精神の退廃。「驚異・畏敬からの自分への圧力」は尊厳ある受動から後退し、今や異質からの圧力は「尊厳・畏敬を捨て去り他者を死で威嚇している」。「死を感じる主体性(冒険的自己拡張)」は逸脱し、「死は最上級の恐喝行為」と堕落した。「命がけの開放形としての把握努力」は「他者を排除する閉鎖的な命」に転落している。
 
83 パラドクス パラドクスといえばゼノン( 335~263B.C.)が有名だが、「飛ぶ矢」は現在考えれば論理のどこが間違っているか簡単に理解できる。それは当時の人の思考力限界を示している。同様に現在の我々も思考力限界を抱えている。ここを整理する能力不足を自覚することは現実認識の第一歩なのだ。
 
84 移民難民問題 国家が自治能力を失えば難民が発生する。「難民受け入れをどうするか」という問題設定は間違っている。「難民が発生する国家の自治力を如何に回復させるか」が本筋。プーチンは意図的に難民を発生さる。武器と同様に他国を揺さぶる戦略に乗ってはいけない。難民受け入れを拒否すれば人道に反するという論理は難民という武力行使を黙認することに他ならない。人道に反しているのは自治力を失った国家だ。人道に反しているのは意図的に難民を発生させている独裁者たち。本筋を見失えば論理や倫理や世論は空転する。「国境に壁を作る」のは政治の思考ベクトルではない。「難民受け入れ枠の設定」も本来の政治の仕事ではない。思考が浮わついている。政治のやるべきことは本筋に関わる問題だ。メディアの責任とは「空転を報道することではなく」、「本筋を示すこと」にある。取材だけが報道ではない。
国際関係を如何にするかは、この本筋から見えて来る。国連の機能もここから導き出せる。
アメリカは他国の自治力回復を支援する、これが世界に向けた最大のメッセージになるべきであろう。
 
85 老化 歳を取ると人は皆「経験主義者になる」ようだ。更に「群れに迎合する」ようになる。迎合とは価値観を問わず迎合自体を目的とする心理。「肉体的生命力」だけでなく「精神的生命力」も衰弱する。個人としての自立力が萎えてくる。辛うじて存在し、辛うじて意識を持っている状態。これを非難する道理はない。達観して接するのみ。この達観を「哀れみ」という。同情ではなく、もっと突き放した関係の意識だ。達観とは共有ではない。当人が気付いていないのだから、同じパースペクティブ(遠近法)は共有し得ない。
 
86 痛恨の死 現在読み返している「生命の内と外 永田和宏」の中に、同僚研究者の早世を痛恨の出来事と言い、次の文章を紹介している。思想家エリアス・カネッティー:「重要なのは、人がその最期にあって何をまだ計画しているかということだ。それが、彼の死にどれほどの不公正さがあるかの尺度となる。」
要は、才を持ちつつ死ぬか、精神が枯れて死ぬかの違い。志半ばで死ぬのは痛恨、志が枯れて死ぬのは衰弱死(別名:自然死)。人は死によって価値が固化する。生きているということは代謝しているということであり、観念的になった時点で生は終わっている(のだろう)。大方は自分で自分を固化している。これを無知という。一種の精神的疾患。
 
87 「カルチャー」は「簡易認識システム」 カルチャー(culture)の一般的な訳は「文化、文明精神、教養、洗練、」と言われるが、認識状況を階層的に視覚化すれば、「ターゲット実体」から「内面状況」への幾つもの階層という姿が見える。「認識シート」とも言える階層が重なっている。
最も上層にある認識シートは簡略化された意識層だ。下部に堀り進むにつれて認識は複雑になりターケット実体に近付く。
上層の認識シートでは内容が浅いにも関わらず認識しているという感覚は持つ。表面的と言われる意識空間。下部に進むに従い、内容は豊かになり、さらに「自己検証能力」も備える。(以上前段、以後本題)。
人々を観察するにつけ、様々な認識シート、認識レイヤーに住んでいることが見てとれる。「自分のレイヤー」以外を自覚できる人は滅多にいない。皆、己は標準たるべきレイヤーに住んでいると思い込むものだ。二次元レイヤー世界の住人は三次元方向としての他在する世界を知覚できないカルチャーとは認識の二次元性を指示していると思える
「カルチャー」には軽い響きがある。大衆文化の響きに近い。「~カルチャー教室」・・・よく耳にする。
芸術は格闘(観念からの脱皮)だと思うが、カルチャーにはそれがない。それでいて文化的な活動をしていると思っている「カルチャー人」。こういう人々が示すプライド根性ほど目障りなものはない。才のない人が示す共通の姿・・・。才もないのにプライドだけは強烈だ。(No.79「超ひも理論とはなにか」における二次元世界人間と三次元世界人間の違いからイメージ。)
 
88 続・アインシュタイン (No.15の続編)「アインシュタイン論文選」「奇跡の年」の5論文、を再読している。
p018「詰め込み教育への反抗」。p020「ほとんどの科目は教え方が嫌でたまらず」。p025「仲間に向かって話すことで自分の考えを明確にできる」。p040「世の中のしくみは、思索に浸りがちな若き夢想家の性格には会わなかった」。「なによりも自分の個性が、抽象的な思考と数学に向いていると思う」。p042「つまるところ資本による抑圧の加担するだけにしかならないようなことのために、自分の発明の力を用いるというのは、わたしには耐え難く思われたのです」。p045「アインシュタインにとって考えるということは、自分ひとりですることであり、主に非言語的な性質のものだった」。p049~「思考というものは、たいていは記号(言葉)を用いず、さらにほとんどの場合には、意識すらせずに行われるということは、わたしには疑う余地がありません。・・(p057)もしそうでなかったなら、なぜわれわれは”驚き(不思議に思う)”のでしょうか?”驚き(不思議に思うこと)は、何らかの出来事が、頭のなかにすでにある概念的世界と衝突するからこそ生じると思うのです」。)・・概念というものは本質的に、感覚で捕捉でき、再現可能な記号(言葉)と結びついている必要はないのです。しかし、もしも結びついていれば、考えた内容を人に伝えることができます。書かれたものであれ、語られたものであれ、言葉ないし言語は、わたしの思考メカニズムのなかでは、何の役割も果たしていないように思われます思考の要素である心理的実体は、ある種の記号であって、それらは自発的に浮かび上がったり、互いに結び付いたりする、多少ともはっきりしたイメージです。・・・わたしにとって思考の要素は視覚的なものであり、ときには身体的なものになることもあります。ふつうの言葉や、それ以外の記号[彼の場合、おそらく数学的な記号]は、次の段階になってから苦労して探し出さなければなりません。・・・なんにせよ言葉が思考に入り込んでくる段階では、私の場合、それは完全に聴覚的なものです。」p055「科学者にとって肝心なのは、もっとも重要な問題を見つけ出すこと、そしていったん見つかったら、それをしぶとく考え続けること」。「物理学もまたいくつかの領域に分かれており、どの領域も、もっと深く知りたいという渇望が満たされるより先に、短い研究者人生を食い潰してしまうような性質のものでした」。p056「分野の根幹につながりそうな問題を嗅ぎつけ、それ以外の問題(こまごまとしたことで人の頭を埋め尽くし、重要なことを見えなくさせるたぐいの問題)から選り分けることができるようになったのです」。p057~「アインシュタインにとって”不思議”とは、その現象本来の”不思議さ”ではなく、その現象と、確立された概念の枠組みとの明らかな矛盾から生じるものだった」。p059~「それは「われわれの概念世界に反動を与える」タイプの矛盾であり、その矛盾が「見かけ上のものにすぎない」ことを明らかにし、概念世界を修正しなければならない」。p060「アインシュタインは自分の仕事を特徴づけるために、”発見”よりも”発明”という言葉を好んだ・・「ここで起こっているのは、ものを作り上げる行為としての、発明なのです」。
このように数式以外での記述は刺激的だ!!
ここまでじっくり読み返していて思い出したことがある。美大4年の時、井上武吉教授が漏らした言葉。「千や二千のアイデアを思い付くのは当たり前。問題はどれを選ぶかだ」。井上氏は大学に入学したその年から自由美術協会に応募し、入選していた。当時の氏の作品には溢れ出るイメージが凝縮している。そこから次第に選択が進み、純度を上げ、社会的信頼を得て、大きなプロジェクトを任されて行ったのだった。井上武吉とい人物と接点が持てたことは私の人生の宝。1997年9月26日、心筋梗塞で亡くなった(66歳)。私は何時もすぐそばに存在を感じる。井上武吉氏は生存している。(1930年12月8日生まれ)
 
89 社会に対し責任感を持つ作家・井上武吉 No.88でアインシュタインを考察し、そこから井上武吉氏を想いだし、更に、氏の特徴は具体的に何なのかに意識が動き、ようやく判ってきたことがある。
ほとんどの作家は個人の世界に埋没し、社会に対する責任感を持っていない。某彫刻家などは「他人の不幸は自分の幸せ、他人の幸せは自分の不幸」と言ってはばからず、「越せるものなら越してみろ」とまで言う。こういう人間を作家と呼びたくはない。しかし、世間的(表面的)には作家として認知されているのが現状だ。深層では思慮深い人に嫌われているのだが、ナルシストなので自覚出来ない。この作家(?)は極端な例ではあるが、ほとんどの創作活動をしている人は社会から認知を受けることを自己の尺度とし、社会を利用することに汲々としている。
 
井上武吉氏の最大の特徴は社会に対し圧倒的な責任感を持っていたことにつきる。柔らかい感性を持ち、健康な精神を宿し、関係者(他者)を裏切ることは決してしない。広く言えば、社会を裏切らないのだ。その結果、社会が新しいプロジェクトを立ち上げる時、いつも井上武吉氏に白羽の矢を立てるのだ。社会からの信用力は絶大で、大学教授という職に甘んずることをせず、自立した連続的活動をしていた。ヨーロッパに行っても関係者に同様の感情を抱かせる。「井上武吉は信用できる。井上武吉は裏切らない。井上武吉を選択すれば間違いない」。共に時間を過ごした人々は皆「充実感と満足感」を抱く。本物の作家、本物の人間。戦後最大の空間造形作家・彫刻家と言われる所以はここにある。
 
井上武吉新作展カタログ・1985年、「ベルリンの井上武吉」ミヒャエル・ヘルター記に、「井上が奈良の室生村に生まれたということは、彼の人生の決定的な要素であろう。最終的には彫刻と建築の道を選んでからも、少年期の教えである秩序、明晰、自己規律は守りつづけている。」とある。
周囲に安心感を与えるのは、井上武吉氏が内面のドロドロとした生の感覚を表に出すのは個人的な発表の場(画廊・個展)に限定され、モニュメントや公園での公共空間においては他者を意識しつつ安易に他者を侵食しない厳しい選別をしているからであろう。画廊と公共空間では自己露出表現は異なる。この線引きがしっかりしている作家は極めて稀なのだ。
 
若き日の武吉氏のメインイメージあるいは造形言語は「間(ま)」だが、それは作品の内部関係に留まっていた。後年、モニュメントを手掛けるようになると、単純に過去を拡大するのではく、空間は他者との触媒関係が芽吹く場となる。ここに至って、武吉氏は新たな「広い空間の間」を発見・発明した。それは表現という意識から飛躍し、場を共有する空間となり、作家だけでなく第三者や自然も「おしゃべりをしだす場」となった。あるいは互いに沈黙しイメージの世界へ誘う(いざなう)「場」や「間」となった。その結果懐の広い空間が出現。一個人(作家といえども)の限定された意識へ強引に引きずり込むことをしない。武吉氏は他者・他在に敬意を祓う(はらう)。他者、他在を清める。これは武吉氏の人間性の成せる業と言えよう。武吉氏の心の温かみに触れ人々の心は疼く(うずく)。ついに公共空間(パブリック・スペース)における「間」の世界に到達したのだ。
上記カタログの冒頭に「ぼくの原風景」の手記があり、その中で「この穴にもぐっていると、とつぜんいろんなものが見えて来る。自分の孤独、他人の孤独、生、死」と記している。ここで読み取れるのは原風景において自分と他人を併記する感性だ。自分と他在の一方に偏らず、そこに「間という場、空間」を見い出している心の深層が見える。原風景において既に他人を自己と同等の対象にする姿勢こそ、武吉氏の人間性を証明していると思える。自然はもとより他者に至るまで、他在への感謝の感情を抱いている。その上で、人間行為の他在的側面に潜む問題点や矛盾をも自己化し、それに回答しようとする責任感を持っている。これが幼児期から育んだ武吉氏の感性であろう。溶質・溶媒の中の住人を自覚しつつ、もがき、時にはその流れに身を任せる。緊張しきった溶媒ではなく、心休まる溶質を模索していたのであろう。武吉氏が時折見せる「おおらかさ」は、心休まる空気を吸っている瞬間と思える。「深い安らぎ」を求めつつ活動していたのだろう。
 
日本経済新聞 1997年(平成9年)9月30日(火曜日)[社会]・・・記事の切り抜きは今でも持っている。
先端的な環境彫刻 井上武吉氏(いのうえ・ぶきち=彫刻家)26日午後10時34分、急性心筋こうそくのため横浜市内の病院で死去、66歳。自宅は神奈川県鎌倉市・・・。告別式は本人の遺志で行わず、29日、親族による密葬が行われた。喪主は長男・・・。
都市の広場や彫刻公園、再開発で生まれた空き地などを舞台に、空間の広がりと人間の関係を意識させるような環境彫刻、モニュメントを制作、この分野で先端的な業績を残した。国外での仕事も多く、マドリードの国際会議場公園やフランスのカレー市にあるユーロトンネルのターミナルなどにもモニュメントを設置している。
今年は奈良県生駒市の近鉄生駒駅北口広場や第二阪奈有料道路の小瀬料金所、滋賀県大津市の大津港シンボル緑地公園で手がけていた作品が相次いで完成、10月24日には美術関係者を招いて大津での作品の見学会が開かれることになっていた。
 
同日、朝日新聞 ・・・奈良県生まれで、武蔵野美術大学彫刻科卒。東京都庁舎都民広場の作品や伊丹市平和モニュメントなどの抽象作品で知られ、彫刻の森美術館や池田20世紀美術館の設計者としても活躍した。中原悌二郎賞、吉田五十八賞など受賞も多い。
 
90 稀な大人 子供が歳を重ねれば大人になれる訳ではない。大人に熟成している人は、0.1%にも満たない。99.9%は子供のまま70代になり、80代になり、あるいは90代に。当たり前の話し。稀な大人に成り得た人は重厚で美しい
「成人したら大人の仲間入り」はクダラナイ定義。人間、3秒も観察すれば初期判断は終わる。その時とっさに出る言葉「貫禄が付いたね」。0.1%は楽観的かも知れない。現実は0.01以下だろう。1万人に1人。10万人の街で10人、100万人の都市で100人、1億人で1万人・・?・・そんなにいるとは思えない。99.99%は成人。「成人≠大人」
社会を動かしているのは「成人」であり「大人」ではない。ポピュリズムの母体は成人。成人が自身を大人であると勘違いする処から間違いが始まる。膨大な稚拙成人が存在し、その数に目が眩んで常識が生まれ、狂った自意識が大手を振ってメインストリートを闊歩する。この集団は数によって正当性を主張しているだけであり、内容あるいは価値による判断とは関係ない。この未成熟な成人集団が社会を動かしている。勿論、一口に成人といってもピンキリだが、ピンだキリだと言っているのが成人の日常であり、成人の枠内で優劣を競っているに過ぎない。
大人とはそういう成人の日常性から飛躍した意識空間に住む住人。思考レベル、感性レベル等、つまりは意識レベルが全く異なる世界の住人。だから目立つ。眼力のある人は3秒で見抜ける。0.1%程度では目立たないし気付かれない。
この様な分類は今迄したことがなかったが、ハッキリ意識すると様々な現象が解釈可能になる。平凡な発想に見えても、限りなく本質を突いていると確信している。
 
91 意識の操縦法 人の認識能力の最小単位がもし0.2秒で量子化されているとすると、1秒間で5ステップ、2秒間で10ステップ、3秒間で15ステップを処理する。個々の量子化された感覚は質的に異なり、その組み合わせは無限となる。しかし個人が持っている質の種類には固有性があり無限とはならない。質は有限でも処理速度は15ステップをキープすることは可能。IQの高い人は0.1秒で量子化しているかも知れない。IQ200の人は、「1.5秒で処理する」か、あるいは3秒で「30ステップの処理能力」を持っているかも知れない。前者は質は同じで速度が速いだけだが、後者は意識の質そのものが異なり高度な意識空間を持つ。15ステップあれば「初期判断」として十分な能力。従って3秒でかなりの判断が出来る。3秒以上時間が経過した場合、大方は繰り返しの意識となるが熟成は進む。次の段階として3秒意識が量子化され、15ブロックが処理可能という具合に進む。人の一次意識維持時間は最長45秒という説がある。キャッシュメモリは45秒の容量しかないようだ。量ではなく時間でオーバーフローするらしい。
最長45秒の意識量子は再活用するために圧縮される。再度45秒を要したら他の要素と作用できない。5秒程度で再現可能な形態に抽象する必要が生じる。イメージを抽象する場合もあるが、あるいは記号化や概念化をする方法もある。記憶された意識運動を格納する時、それを引き出す時にも抽象化が行なわれる。これを上手く処理すれば意識の風通しは良くなる。抽象化は意識の基本運動でもある。同様に外部刺激と誘因された意識の総合体も性格の異なる抽象が行なわれる。抽象形態は自分の操作能力との関係で相対的に決まってくる。したがって、抽象の手法と形態には個人差が生じる。
運動神経は鈍足だが、意識操作は脳内で処理できるので俊足。一つのイメージを把握するのに要する時間、これが問題となる。3秒というのは多く見積もってもという意味。3秒は物理的側面であり、より重要なのは質、つまり意味が問われる。イメージを把握する時間、意味を処理する時間・・・ここで時間をこねくり回す。更に意識をこねくり回し、意味をこねくり回し、価値をこねくり回す・・・。個人差があるのは明らか。
内面は誰でも持っていると主張するだろうが、内面の操縦は非常に難しい。与えられた操縦法で日々過ごす人は多い。しかし、内面は本質的に操縦法が決められている世界ではない。ここを自覚しなければならない。操縦法が決められていない・・・だから面白い。未知の操縦法を見つければ、人が変わる・・人生が変わる・・社会が変わる・・世界が変わる
 
92 外部刺激の利用法 外部刺激を人という生命体の何処に作用させるか。作家は先ず外部刺激と交渉し自己を刺激する。作品は他者を刺激する。他者の何処に作用させるか・・・考え処。ここで作家の力量が試される。
(自分の事しか考えていない不器用な作家(?)には関係のない話し。)
 
93 創作活動に対する疑問 最近気になることがある。独創的な創作とは言っても、それは既存の形式内のことでしかないのではないか。こうすれば表現が可能という観念形式に対する無自覚。あとは内容の問題と考える。もっと遡って創作活動のパターンを点検する必要がありそうだ。
下手をすると、創作は自身で守備範囲を決めてしまい、自分で自分を制約することになりかねない。作家自身が自身の檻を造っているのでは・・・。創作活動の原点・・・ある範囲でのあれこれではなく・・・固執する範囲を超えた・・・周辺に広がる諸問題に目を向けて。
無自覚に安易な表現手法に溺れているのでは。それでも「それなりの作品は創れる」。しかし、それで良いのか・・・
これらの観念・形式・守備範囲は文明・文化の流れの中にある。これは宗教・支配階級・パトロン・商品の流れでもある。権力から自立した様にみえても、今度は、権力への無関心へと変質しているのでは。「文化産業」という概念を最近知った。このような概念は屈辱的だ。創作活動は行為の本流を成すべきもので、部分化されてはならない。部分に甘んじてはならない領域全般、ここが創造活動の生命線であ筈だ。ここに自力で足場を築かなければ、すべては「まね事」に終わる。
このままでは、私の作品も人生も「まね事」で終わる。もっと根本的な処で再構築しなければならない。一般に流布している足場ではダメだ。話しにならない!!
 
94 パリ・オリンピック2024 (8月10日記)人類の「遺伝子の発現」と「代謝」が如何に不安定か・・・この印象に尽きる。何に促されて個々人は現象しているのであろう。
それにしても、参加者の精神の未熟さにをどう解釈したらよいのだろうか。この未熟さが表情や仕草に露骨に見える。見るに堪えない。人間の極一部の能力を対象にする競技。ある意味一芸に秀でていても欠陥部分の方が多い。置き忘れてきた能力があることを自覚する能力がない。人間が崩れている。文明の末期現象。
 
95 不意を突かれる 地震 2024年8月9日 19時57分 神奈川県西部 震度5弱 M5.3 深さ10km。
スパゲティーの麺を茹でるのにフライパンに水を入れ、ガスコンロの点火スイッチを押しスパークが数回鳴ったその時、得体のしれない雑音がし周囲が振動しだした。携帯電話の緊急地震速報アラームが鳴り確認すると震源地は神奈川県とある・・・。この時初めて地震だと分かった。それまでは何が起こっているのか理解出来ていない。高温多湿の為ここ一週間程脳の調子が悪く血液の循環が悪い感じで平衡感覚が狂っている。それに直下型地震は体験したことがなかった。
現在の日時は8月10日22時。人間、不意を突かれると何が起こっているか理解できないという事が判った。
ここから連想が始まる。
作品が今迄と全く異なる足場から生まれている場合、初めて見た人は、そこで何が起こっているのか理解出来ずに眩暈がする筈だ。眩暈を起こさずに作品が目に飛び込んで来た場合、その作品は既存のパースペクティブの延長線上にあるという事になる。感動がどうのこうのと言うより先に眩暈を感じる筈だ。
作品を制作する場合、感性にしろ思考にしろ、意識・無意識を問わず辻褄合わせを行うのが通例であろう。意識の操縦法として、ここが既に間違っている。つまり攻め方が根本的に間違っている
不意を突かれる・・・不意を突くような創造活動は如何に組立られるのだろうか・・・。何故、不意という感覚が必要なのか、それは、既存がらの脱却度合を計測する尺度となるから。こういう事は今迄考えたことがなかった。体験の重要性は連続性にあるのではなく不連続性にあるのかも知れない。
世界の状況をみれば明らかに全てが狂っている。この狂った世界を正す企ては現状に足場を持つ人々からすれば正常に映らない。狂人は(狂人も)己を正常と思い込むもの。彼らからすれば「正常は理解できない不意の存在」なのだ。
作品は感覚的にこれらを指摘する傾向にある。しかしそれはもはや許されない。もっと現実に密着しなければならない
「不意」・「不連続」・「密着」はキーワード
 
96 気配 心惹かれるのは気配。未だ姿を現さない何物か。現象することで気配の持っていた命が枯れてしまった実体には幻滅しか感じない。気配とは一歩先を進む生命力。気配に誘われて次の時間内容が決定される。たった二枚の葉しか付けていない新芽は、成長し花を咲かせ実を付ける将来を、どのように知覚しているのだろう。
 
97 「動的平衡・2・生命は自由になれるのか」福岡伸一著 木楽舎 2011年 第1刷発行 再読。
ナチュラルな認識。この辺りを自然な常識として持っていてほしいものだ・・・人ならば。
 
98 汗と尿 夏場、汗を多量にかき尿は少なくなる。ここに体調を崩す原因がある。尿が少なくなると血液中の老廃物の排出量が減少する。血液中の老廃物量は増加する。水分の不足によって腎臓は十分に機能することが出来なくなり、意識障害や目まいや平衡感覚異常が起こる。
どんなに汗をかいても尿の量を一定水準にキープしなければ体調に異常をきたす。水分補給の目安は尿の量で判断すべきなのだ。汗と尿は機能が違う。(No.97記述からの類推)。今年(2024年)の夏は異常な暑さだ。60年~65年前、33度はひと夏数回だったと記憶している。この間、4~5度、気温は上昇している。平衡感覚異常に悩まされていたが、No.97の本を読んで気付き水分摂取量を増やしたところ体調は改善した。生活の知恵あるいは常識の範疇であろうが、社会のなかで健康の専門職の人でも、これを的確に指摘出来ていない。言語表現力が低いのか意思疎通が出来ていない。単に「水分を摂りなさい」では内容は伝わらない。詰め込み教育の弊害であろう。
通常尿量:成人1000~1500cc/一日。
初期尿意:膀胱内100~150cc。
最大尿意:膀胱内250~300cc。
通常の尿検査カップは200cc。自分の尿意と排尿量を一度計測しておくと良いだろう。
 
99 自閉症としてのナルシスト・自己陶酔  生れ出たひとは発育環境に作用され、本来先験的に持っていたセンスを大人になる前に失う。世の中の怖さはここから始まる。失われている状況を自覚出来ずに「先験的なセンスだと思い込む」。この状況の上に自我が確立されれば、どうなるか・・・ナンセンスな自我が現象する。その「ナンセンス自我」が自己を検証することなしに、自己は正当なセンスの持ち主だと主張する。こうい人びとが群れる。「ナンセンス日常」「ナンセンス常識」「ナンセンス理屈」「ナンセンス感性」・・・。
本来、自己という概念がもつものは、努力せずに受け継いだ体質からの飛躍を意味する。そう簡単に自己主張は出来ない筈であり、安易な自己主張は「中身のない自我・エゴイズム」でしかない。この状況を「自閉症的だ」あるいは「ナルシストだ」と知覚する。この「独自性のカケラもない自己」が感情を表に出すとき、気持ち悪い表情をする。「ニヒリズム的笑い」「自己顕示的笑い」「出しゃばった態度」「露骨な自己陶酔」「自意識過剰な笑い」が、「醜さの極み」とばかりに表面化する。陶酔状態にある自己を周囲に押し付け、その反応を確認し、自己満足を見い出す。
さらに、脳が活発に運動している時に伴う筈の「眼球運動」が無くなる。焦点の定まらない一点に瞳孔が開き動かない。これは、意識運動が完結していて、自動的・無自覚的に言葉が出ている状況だ。
瞬間瞬間は意識の刺激になっていない。蓄積された意識空間の中だけに住んでいる証拠でもある。周囲を見る価値を既に失っているひと。それでいて行動はする。行為がパターン化するのは明らかだ。それも稚拙な行為パターンに・・・。
こうして行為は自閉症とナルシストと自己陶酔に乗っ取られる。無知な人ほど安易な行動に走る。思考に走らない
群れに対し違和感を感ずるのは上記の理由による。そこに思慮深さはなく、無知な行為が暴走している。
 
100 個に逃避する作家 群れに対し違和感を感じるのは健全な精神。しかし、群れの不健全さを客体化し、個人的な運動空間に逃避する作家を創造者と呼びたくはない。No.89、井上武吉氏の告白を年齢順に追うと、作家の変容が見えて来る。
①27歳「彫刻の可能性と、人間の不条理とが同居しているのです。それらの調節の為に時代独自の造形化が奇妙な歩調で繰返されるのです。現代という社会構造の中に閉じ込められて機構化された人間性をその複雑な密室の壁から解放する為には何を破り何を再構築しなければならないか。彫刻家の意識は常にそうした人間性を閉じ込める密室の壁に向けられ、一つの窓を求めて合法的な造形のイメージを組織するのです。」
②43歳~48歳 ベルリン時代 ミヒャエル・ヘアター記「〈 my sky hole〉は一人の人間が混沌と不可解な世界から個人のユートピアに逃走する姿を示す・・。」 
③48歳「これだけ世の中が忙しく複雑になると、ぼくは日々理解を超えるものとかかわり、それと闘い、しかもたいていは支配されえしまうという不本意なことが起こるそれでは心身のバランスが取れないから、たえずもう一度自分の根に戻りたい、自然や宇宙の運行と生まで接したいという気持ちが起こる
作家も時代の子から逃れることは出来ないが、井上武吉氏より20歳年下の者として、同じアプローチはしないという覚悟はある。20年という年齢差は、「同じことをすることは許されていない」、と私は考える。