発起人プロフィール Curator of this website 私は単にサイトを立ち上げたに過ぎません。

栗木道夫 Michio Kuriki
 
出身地   東京都(伊豆大島)
 
1961年4月~1963年3月 埼玉県狭山市立入間川小学校5・6年生担任
「塩原勇」
(1934年生まれ)埼玉大学教育学部卒(国語教育)
児童詩の先駆的研究実践者。毎週、詩や作文を書かされていた様な記憶がある。中心は「詩」であったが、私は「作文」の方が馴染みが良く、「表現の工夫」によって現実感がガラリと変わる経験を何度もした。工夫なく書かれた文章は「水不足時の植物」か「だらけた日常」の感じになる。ところが工夫すると「植物も日常も生気に満ちた密度感」のある姿を現す。これが文章を書く面白さだ。数年前にネットで検索したら、退職記念に300部自費出版された「心の教育・ことばの教育」が見つかり、出版社か古書店にあったか最後の一冊を入手できた。驚いたのは、6年生の一時間の討論内容が全て印刷されている。テープレコーダがあったのか記憶にないが、「ちょっと」を「ちっと」と私が言ったのか、そのまま文字になっている。詩も紹介されている。60年前の記録。同級生の名前で顔が浮かんでくる。こんなことがあるとは・・・。以後の学校教育で、これほど国語に熱中したことはない。私が「工夫すると世界が変わる」事を体得しえたのも塩原勇先生のお陰だ。
当時6年3組だった方、おそらくすっかり忘れていると思いますが、本書を読むと昨日の様に思い出されます。コピーして郵送も可能と思います。ISBNコードが付いてないので、国会図書館の蔵書対象にはなりません。当時の他校の研究者の報告も丁寧に記載されているので、歴史から消滅してしまうのは惜しい。この書作の確実な保存と活用についてのアイデアを教えてください。連絡お待ちしてます。(狭山市小学校校長3校歴任、埼玉県国語教育研究会会長、県教育委員会より教育功労賞)
追記:「心の教育、ことばの教育」は埼玉県立熊谷図書館に一冊あるそうです。貸出には三冊必要で現在貸出不可になってます。埼玉大学教育学部にも連絡しましたが、保存の確実性と利用者への間口の広さを考慮し、埼玉県立熊谷図書館に寄贈することにしました。
 
1974年  武蔵野美術大学造形学部彫刻科(現代美術コース)卒
担当教授
「井上武吉」
4年間、徹底的に二人称関係を持つ。全身柔らかな神経の塊。私が直接出会った「これぞ生(なま)の人間」と思える数少ない人物。一年生二年生では「井上先生」と呼び、三年生になると「ぶきちさん」、四年生では「ぶきっつぁん」と呼んでいた。氏と深く接点が持てた事は私の人生の宝。
私が武吉氏から影響を受けたよりも多くの事を、武吉氏は私から影響を受けた筈だ。(武吉氏の吸収力・感性・力量の凄さは私から抜き取れるものをことごとく抜き取った)。武吉氏は多くの場面で私を評価していてくれた。彫刻科は一学年約30名。二つの教室を使用していたが、「栗木には教室を一つ与え一人にしないとダメになる」と研究室で提案したそうだ。誉め言葉なのか、だからダメになったのか、それ以上は説明しない。真意をストレートに言うことは稀だし、比喩的表現が多いし、あれこれ考えつつ黙って聞いていた。「1973-A」の作品、私が初めて手応えを感じた作品で武吉さんから「研究室に置いておけ」と言われた。研究室に来客があり「この作品を制作した人は問題の大きさと難しさをどこまで自覚しているのか」と尋ねたそうだが、どう答え、その客人が誰だったかは教えてくれなかった。その他、膨大な話しをしたことが懐かしい。(Web情報多数
 
「保田春彦」
1年から3年一学期までの彫塑教官。(他に彫塑教授が二人いるが話しをしたのは一回だけだった)。自分で見つけた視点で作品を造っていると、保田先生が後ろから「それでいい」の一言で、次の生徒を見に行った。無口で神経質。対人関係は一線を画すのでこちらも神経を使うし時として疲れるが、気持よく心の通じる時もある。優れた教授は自ら指導はしないが、上手くいった作品の良さは見逃さず声をかけてくれる。非常にシビアなだけに手ごわい。
芸大卒業後渡欧し、1968年に帰国。国内では無名であった。朝日新聞(1970年)に大見出しで紹介された記事は忘れられない。「40歳・彗星のごとき新人あらわれる・・彫刻家保田春彦
保田春彦氏の1970~1973当時の写真をお持ちの方、掲載いたしたくメール添付で送って頂ければ幸いです。(写真を撮られるのを拒絶するピリピリした雰囲気があるので、おそらくないでしょうが。)(Web情報多数
 
「他の具象教授陣」
完全無視。モデルを中心に円陣の配列で制作するのだが、私のところに来ても一切無視し話しを切り出すスキを与えなかった。自力で掴んだ物の見方(パースペクティブ)なのに、次の時間に他の学生にあたかも自身が指導している様にそれをバラす。主任教授ながらタチが悪い。具象の教授は2月後半に個展を開く。70~100万円の販売リストが置いてある。大学院の入学選考は3月だ。大学院にどうしても行きたい学生は親を連れていく。その後の顛末は御想像の通りだ。
「某彫刻家」
抽象彫刻の性格の悪い教授(このサイトで某彫刻家と呼んでいる人だ)は現金主義だ。相場は100万円。卒業生が斡旋し、その人も経費込みで100万円、合計200万円。その話しを傍らでしていて私の存在は無視し話しは纏まった。それでも現在「指定国立大学法人」の名誉教授だ。こんな人間に褒章を与える事態にならない様に「内閣府・褒章局」へ通報済み。作品は売れに売れるが人間性は極悪。
 
「現代美術コース」に変更後、課題制作において教授の想定内と思われる発想は全て自主的にボツ。自分のテーマを一から熟考(徹底的な内省)。このプロセスは非常に重要と自覚していた。自身も含め「常識からの脱却・日常からの距離」を再構築しえる。ここのセンスがない人は作家ではないし、ましてや芸術家でもない。
 
「意識と行為」は私の中心テーマと自覚(1973~)。1973-Aの制作後から教授陣や同級生の私に対する態度が一変。現代美術を歩む原点はこの時期に体得した。
 
1975年~76年アメリカ遊学(某彫刻家助手、実質利用されただけ)
(ロサンゼルス・コロラド・セントルイス・シカゴ・ニューヨーク・
フィラデルフィア・ワシントンD.C.・アトランタ)。ニューヨークからは一人旅(新鮮で楽しかった)。
    
現住所:神奈川県
 
主な発表場所
神奈川県美術展(全国公募・在日留学生も可)
 
social art(社会芸術)論
社会問題から目を背け、「アート」「芸術」と言っている人に何が出来る! 意識が目覚めていない者は何も出来ない。意識の覚醒レベルこそが大問題なのに、自分は完全に覚醒していると思い込んでいる日常の異常さ・無知・その無能力さには驚くばかりだ。全方位に対する人間力が貧弱なのに、おこがましい自意識だ。
 
一般のHPプロフィールと異なり、何故この様に書くか
5歳の頃から家庭内では孤立を感じ、親が国家公務員で3~4年で転勤、小学校2校、中学校2校、土地柄も異なる。自分にとって自然より人間の観察力で生きていくしかない。「学校から自宅へ帰る」ことに何の疑問も持たななく生活してきた訳ではない。「人を観察すること」は先ず最初にしなくてはならない最優先課題だった。観察するということは何某かを確定しきるということではない。そこに見出される姿は寧ろ「曖昧さ」であったり「意識の運動限界の姿」が見えることの方がはるかに多い。他者と同様に自分自身を把握しきれない。「把握しきる」という衝動に「異なる把握の仕方」という重要な方向性の模索が隠されてしまう。これは大問題だ。「他人の意識も自分の意識も特定できないが故に疑う」という意識運動が深く身に付いた。(「疑う」という捉え方は適切てはないと今になって気付くのだが長い間使い続けてきた。適切な表現に言い換えるなら、「別次元が存在する、あるいは、存在してしまう」と表現・自覚すべきだった)この習慣はアート行為に近いものがある。ここにしか自分の経験的体質を「ポジティブに変換する場」を見つけることが出来なかった。「ある限界の内に住んでいる場」から如何に脱出するかを見出さなければならない。自然科学と異なり人間を対象にする場合、分析ですべてを把握することは出来ない。創意工夫(大袈裟に言えば創造)しなければ同じ場、同じ意識に停滞してしまう。慣れで身に付いたもの、それ故自覚しえないものに対する点検力は重要だ。自覚できる世界の問題点から目を背け「能天気に羽ばたく」のは楽観主義ではなく軽薄でただ見苦しい。
 
忘れもしない一年生の井上武吉氏の初授業。(この時初めて先生を見た。氏のこれ迄の仕事も知らなかった。)クラス全員を円陣で椅子に座らせ「どうして彫刻を専攻したのか」一人ずつ質問された。一番手は私の左に座っていた女子学生。次は自分の番と思い如何に言おうか考えていたら逆回りで私が最後となった。当然私は全員の発言を聴いてから話す破目となった。「ロダン」の名を挙げる人が一番多く「感動して」という言葉も多くあった。私は「ギリシャ・アルカイク~クラシック・ヘレニズム期の劇的変化に興味がある」というような内容を纏まりもなく話していた。それを聴いて井上先生は「お前は分からないという事で自分を感じている」と言われた。非難の意味合いであることは間違いない。しかし返す言葉も出てこない。私はロダンは嫌いだし「感動」という言葉は安易に使うことばではないと考えていた。どれほどの経験をした上でその言葉を発しているのか、感動という言葉を連発する同級生を軽蔑していた。案の定、そう発言してその後成長した学生は皆無だった。「判らない、理解できない事だらけの世界を把握する為に彫刻を専攻した私」なのだから、井上武吉氏の指摘は当を得ている。しかし「非難される意識の持ちようではない」という考え・感情を私は持っていた。「そうであろうが同意はしない」と感じていた。「お前は分からないという事で自分を感じている」はネガティブではなくポジティブな姿勢ではないのか!私は大学四年間でそれを実証し自分の世界観を掴んだ。井上武吉氏の1979年以降の仕事(my sky hole 79 天をのぞく穴 @ 箱根彫刻の森など国内海外で5~6点シリーズ化されている)に私の(1973-A,1973-B)の影響が色濃く見える。卒業後、氏は私の追求していた問題を数百回以上意識の俎上に浮かべたに相違ない。
 
武蔵野美術大学の有名な西伊豆遠泳教室(妻良~小浦)
大学一年時「完全金槌、私はただ一人早々にボートへ」、二年時「途中で海水を飲み、側永者の先輩にしがみ付き沈められる。呼吸を整えゴール」、三年時「三列縦列最後尾で完泳。伊藤教授がここがゴールと両手を広げていて満面の笑みで握手」、四年時「先頭を泳ぎ、進行方向や後続の様子も観察できた(上写真)」卒業後5回目「初心者の側永、初心者の二呼吸ごとに一緒に潜り、手を引っ張り、足の裏を押す(下写真)立っているようだが水深10~15メートル」卒業後6回目「筋肉マンの初心者の側永、呼吸するだけで前にいこうしない「おおらかな性格がうらやましい」。最初から最後まで一呼吸ごとに手を引っ張り、足裏を押す。全く疲れを感じず。直ぐにでも折り返して泳げる体力があった」卒業後7回目「小柄な女性だったので楽。呼吸で声を出すようになりボートの伊藤教授にジェスチャで指示を仰ぐ。一旦浮き輪に掴まさせ、氷砂糖タイムということで数分休ませ、その後完泳した。たいした根性!」・・・初心者にとっては今迄の人生の中で最大の恐怖だろう。私自身もそうだった。恐怖心からか寒さを感じ震えが止まらない。これは初心者共通の反応。中・上級者にとってはレク。「完泳すれば人生が変わる」と言われていた。私の一年時・二年時しか知らない参加者は、私がここまで上達するとは想像もしていないだろう。恐怖心を乗り越えられず本番を回避した学生も数人いた。
上記は単なる思い出ではなく、この文章を書きながら考えさせられたことが重要なのだ。「個々人が抱いている他者評価はどの時点のものなのか?」「誰もが抱く現実感・実在感はどの時間に足場を置いているのか」・・・。もつれていて整理出来ない。「我々はもつれた意識の中で生きている」今この時を分厚くして生きていく以外方法はなさそうだ・・という優等生的な事は言いたくない。物事、そう単純ではない
 
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塩原勇
塩原勇 1994年出版
 
 
 
 
 
井上武吉教授 1973年
 
 
井上武吉氏
ドイツ滞在時(1974~79)
東京都美術館特別展図録第15号
井上武吉新作展(1985)
my sky holeー迷路
カタログ13ページ
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保田春彦氏
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栗木道夫 2009年3月
 
1973年 武蔵美・西伊豆遠泳教室
1974年 初心者の側泳
 
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1999年3月、大手の下請け会社なので大物があり面白いが、この会社には「常識・教養・行儀」がない。W3.4m、D6m、H2m、躯体だけで5トン以上ある。オールステンレス。強度設計は私一人が全責任を負う。狭心症と脳梗塞の最初の発症。2週間労災で休む。陳旧性で12年後本発症。心臓冠動脈(右)が部分閉塞。救急搬送。ステント1本挿入。狭心症の最高値に近く右心室心筋梗塞の寸前。検査で中央冠動脈(心臓に必要な血液の50%以上を担う動脈)完全閉塞が判明。左の冠動脈からバイパスがカバーしていたようだ。専門病院に転院し名医が処置。医師曰く「左が閉塞したら死にます」。何と正確で美しい言葉だろう。造影剤が流れないので二軸モニターで探りながらガイトワイヤを2時間かけて通す。その後の処置は30分ほどで終了。ステント挿入したので、現在合計2本。視野にも異常が出た。大学病院で最新のMRIで検査。こんなMRI画像は見たことがない。脳の後半分が薄白くなっていた。過去の脳梗塞の痕跡だそうだ。今はほぼ回復しているが、動体視力が低下しているので運転免許証は返納。今でも原色包装を見るとめまい。脳全体が機能低下する。厚木労働基準監督署は証明するのは困難と素気ない返事。公務員は困難な仕事はしない。過労死か自殺しなければこの役所は動かない。裁判も考えたが馬鹿を相手にしても健康は戻ってこない。遠泳をしてなければ私は2009年3月(58歳5ヶ月)で死んでいただろう。