栗木道夫 メモ帳
 
本来、自身のサイトへ飛ばすべきでしょうが、予算上この場を利用させて頂きます。後日、個人サイトを設けます。「すべてはART」HPを制作するに至った私のバックボーンを羅列してます。

直ぐに思い付く名著(あるいは拒絶書)・人物評価

1  ヴィーコ 「新しい学」世界の名著・続6(奴隷発生の見事な解析)

2  ヘーゲル 「法の哲学」世界の名著・35(藤野渉・赤澤正敏の名訳)「不法がまだ法であるような世界」255ページ。「原始奴隷制」はギリシャ、ローマの奴隷制、植民地時代の奴隷制、アメリカが行ったアフリカからの奴隷、とは異なる。この辺りの事情はヴィーコの著作を読んでないと理解できないであろう。原始奴隷制には倫理性があったのだ!?。有史以前の人類の祖先は野蛮で、狩りをするか、略奪するか、殺すか、・・・。最後の手段として比較的安定していた集団に逃げ込んだ。そこでの身分が奴隷であり、奥深い森林での殺人、・・・、から逃れる手段を集団が提供した。これを指して倫理性があったというのである。(・・・の箇所は表記に堪えない行為を意味する)数万年経過しても原始倫理とその類似行為が現在も行われているということだ。この経緯があるから現在でも「倫理に対する鈍感さ」がDNA化しているのか「野蛮行為と正義感」に親近性を残している。

3  ドストエフスキー 評価に耐えるのは「死の家の記録」のみ(自身の知らなかった人間を発見していく若き感性がある)。他は駄作(観念的に硬直した人間しか登場しなくなる。こうなると二流・三流レベルの物書きと変わらない)。

4  シェークスピア 「リチャード三世」。途中で放棄した唯一の書物。「人の良識を逆撫でして快楽に耽る醜さの極み」(デュシャンの様だ)

5  アーサー・ケストラー 「機械の中の幽霊」(権力によって歪曲されている名著)。「ケストラー自伝・目に見えぬ文字」・・・本書の中の記述と記憶しているが、ゲシュタポは「考える人を見ると思わず拳銃に手が延びる」。権力者が最も嫌う人間は「物事を考える人」。ファシズム・全体主義・・・つまり権力は考える人、思考力のある人を嫌う。国家権力だけの話しではなく私的集団においても同様。権力が求めるものは「従順」と「個人が考える事自体を放棄する」という状況だ。この本に紹介されている著作を読んでいくと、知らなかった名著に出会え、良い連鎖が始まる。  

6  三島由紀夫 豊饒の海「天人五衰」等々(二十代から最も読んできた物書だが)、氏の強がりは虚飾(つまり仮面)。「受動性・弱虫・逃げ・誤魔化し・コンプレックス・ナルシスト」が氏の本性。「自身を脚色し演じきるのが氏の生き方の決意」(仮面の告白)。所詮「作られもの」は見抜かれ、それに耐えきれず自滅する。生命の中心から溢れ出てきた足場にしか存在の確かさは宿らない。「豊饒の海・四部作」は第一部「春の海」と第四部「天人五衰」だけで十分で第二部・第三部は惰性で構想力に乏しい。(後日記)自身を仮面で脚色できるのはひとつの仮面でしかなく、他の仮面に変更する訳にはいかない・・・これに気付いた時、それは自己の限界と自覚されるであろうし、「生きるつまらなさ」も自覚する筈だ。第四部で門跡に「それも心々ですさかい」と言わせている。ここで三島は仮面も様々あると告白している。つまらなさの中で生きることは出来ないので最初の仮面を貫くしかなくなる。逃げ場はここにしかない。

7  大江健三郎 退屈な物書。芸術的な才能がまったくない。俗世を新たな修辞法(レクチュール)で描いたところで、所詮、世俗的感覚から抜け出すことは出来まい。古書店でも大江健三郎の書籍は売れないので引き取らない。「音楽家で評価できるのは武満徹だけ、建築家で評価できるのは原宏司だけ」と言い放つのは解からないでもでもないが了見が狭い。それだけ現世に密着し「仮定するイメージ力」がない。ここから「退屈さ」が生じる。

8  司馬遼太郎 世風に流されている、あるいは流される事を意図している「虚勢の石船」。空海や信長などが登場する場合、どうしてそういう人間が生まれたのかへの言及が浅く、既に特有の性格を備えた者として書き始める。こういう書き方は考察すべき事象に目を向けていない世俗物書き。関東軍731部隊の大物を取材し、またそこに所属していた(?)人へも取材し、両者のインタビュー番組がテレビに流されたが、はぐらかす731部隊の大物に対し司馬遼太郎は笑い顔でヘラヘラしている力量のなさ。事情を知り取材に応じた人は「司馬遼太郎の態度は絶対に許せない」と言ったそうだ。結局その取材からの731部隊をテーマとする小説を書く事を放棄した。詰まる所、世俗を肯定するに走り批判する力量がない。

「世界の名著」にはリーフレットがあり、二人の対談が毎号添付される。フランス革命を扱ったミシュレのリーフレットの対談の一方は司馬遼太郎だった。この人、ミシュレを読んだのだろうか、おそらく「斜め読み」か「飛ばし読み」としか思えない。フランス革命についての根本的な話しは一切していない!!「世界の名著」リーフレットの中でおそらく最低であろう。

9  フランク・ウィルチェック 「物質のすべては光」。最近の論文では「光は結晶する」がある。現代の論理・実験物理学の天才的存在。

10  永田和宏 「タンパク質の一生」岩波新書1139。入門書だが簡潔にして明快。書中で紹介されていた日本人研究者はその後3名ともノーベル賞を受賞している。生命現象のバランスの良い記述。

11  杉晴夫 「神経とシナプスの科学」2015 BLUE BACKS 視野が広く理解を助けてくれる。図解も的確。本書を読むと生命科学から意識現象、病理現象・・・有機体のイメージが大きく変わる名著。

12  マイケル・ポランニー 「暗黙知の次元」物理化学者。結晶Ⅹ線解析や化学反応速度論などノーベル賞が確実視されてながら社会科学へ転向。「人間とはどんな反応をする生き物か」の核心に迫る探求心は一流。息子のジョン・ポランニーは反応速度論でノーベル賞。兄は経済学者カール・ポランニー。この一族には共通した深い探求心の核がある。

13  カール・ポランニー 「新訳・大転換」「経済と自由・文明の転換」。楽観的な資本主義論だが、制約された時代に書かれたとしても、人間の実質はもっと愚かだ。人間観察がしっかりしている経済学は面白い。「経済と自由」(ちくま学芸文庫)はどのような人生を目指そうと高校生(18歳)までには読んでおかなければならない著作。その為には教育システムの大改革が必要であろう。人間足りえる知性の根幹にかかわる内容。

14  I・プリゴジン、I・スタンジェール 「混沌からの秩序」現在も再読中だが何回読み返しても新たな刺激と発見がある。

15  アインシュタイン 「アインシュタイン論文選」(ちくま学芸文庫)数式を完全に理解出来なくても、健全な精神に触れることが出来る。

16  ピカソ ニューヨークで現物を観た(広い階段ホールに掲げられていた。展示室側からは見えない。「ゲルニカ」は悲惨の感情表現のみで、戦争の原因は作品に盛り込まれてない。この思考形式が哲学や政治学で評価されるなら「0点」であろう。醜い感情誘導・世論誘導としか感じなかった。こんな稚拙なアプローチをいつまで評価するのだろうか。「騙し絵」でしかない。ハッキリと言おうではないか!「曖昧な評価は偽善だ」と。

17  カール・マルクス 教養書程度のものしか読んでないが、人間の内面に関する考察がより高度であったなら、歴史は変わっていただろう。ある意味においてマルクスの人間観は浅い。人間考察の弱さが彼の最大の弱点だ。この弱点からレーニンやスターリンが生まれ、その他の共産圏にも波及し現在も濁りが色濃く存在する。人間とは何か、社会とは何かについての論理性が強くなると全てが硬直する。その結果、共産主義を自称する社会が独裁国家になりやすいのは歴史が証明している。カントと同様、偏ったベクトルの論理は人間の品格から遠のく。局所的な論理は全体からみれば整合性を著しく欠く。そのことさえ自覚出来ない者は人間と言えるだろうか。カントの目的論的演繹は出だしから間違ってる。マルクスと同様ナンセンス。マルクス(18181883)にパスカル16231662のような人間観察力があったなら、マルクス主義と云われる内容はもっと分厚い論理構造になったであろうし、その後の影響・歴史も含蓄ある展開を示したであろう。硬直した論理は犯罪的であり、それを利用する軍事的政治家は犯罪の実行者。マルクスの論理は片側に支えのある壁の様でその方向には倒れないが、支えのない方向へは簡単に倒れ人々が下敷きにされ圧し潰される「欠陥構築物」

18  マイルス・デービス、ジョン・コルトレン 抽象度の高いイメージを掴む天才。

19  プーチン ファシストを通り越した「無知性独裁者」。「難しい決断だった」・・・そうでしょうね。無知性にとって決断という概念はないはずだ。ロシアでは悪知恵が知恵なのか。ロシアの伝統。レーニン、スターリン。

20  トランプ 人前に出ながら自分の愚かさに気付かない人は珍しい。ホワイトハウスより博物館が似合う。

21  ゆるキャラART 大多数の人は世間を甘く見ているか無関心に走っている。いわゆる「ゆるキャラART」は創造を投げ出した「だらけた精神」でしかなく、それを商品化している。核心から気を逸らす退廃的行為でしかない。列をつくって見に行く「だらけた大衆」、それを報道するメディアは大衆の退廃化を生業としている。隣国や周辺諸国における「体制に迎合しなければ生きて行けない情勢」の別バージョンであろう。

22  頭の瞬発力 悪知恵は瞬時に起動すので気が短く思慮が働く時間がない。一方、美的感覚も受動性においては瞬時に機能するが、能動性では亀より遅い。美的能動性に瞬発力があるのは超一流と天才だけ。一流以下は皆鈍足。しかも、受動の速さに惑わされ能動も当然速いと勘違いする。彼らの能動はほとんど機能していない。受動に酔っているだけ。

23  ヴィトゲンシュタイン (1889~1951)「論理哲学論考」 アメリカ・コロラド州にいるドイツ系アメリカ人の友人が、ヴィトゲンシュタインの上記の最後の文章をもじった作品の写真を送ってくれた。岩波の文庫本を図書館で借り、本文は約140ページで箇条書き、バートランド・ラッセルと訳者の解説・訳注・索引が100ページ。一週間もあれば読めると思ったが、2週間で半分も読めない。明快だが底が見えない深さがある。自分の日常の意識はある程度論理的だと思うものだが、読み進むうちに、自分の意識の論理性が場当たり的に納得しているだけで、実際はコンプリケーション(縺れ)していて、それさえ自覚出来ていない事実を突きつけられる。「命題の適応範囲」とか「命題を証明する中でその命題を使用してはならない」とか、とにかく考えさせられる。古来の論理学は「三段論法」「演繹」「帰納」「類推」「仮定」で事足りると言われていたのに。この本を読むと、我々の意識は大部分が無自覚に浅い事が判ってくる。語り得る事は、手中にある操作記号の範囲でしかなく、最後の文章は「語りえぬことについては、沈黙せねばならない」で終わる。著者は明快さと同時に自己否定も含みつつ記述していくので「受け止める読者として入り込む余地は沢山ある」が、著者ほど「整理する能力」がないのを痛感する。

高校2年の数学の授業で証明の最後に∴(ゆえに)が3回・4回と続くので、先生に質問した。「∴は何回でも使っていいのですか」。揶揄われたと感じたのか、教師はカンカンに怒って授業は終わった。同級生も「先生を揶揄ってはダメだよ」という。しかし私の感覚は違う。「∴が連続すれば証明はシンプルさに達する」と受け止めるよりも、その連続は「自身がある論法のドツボにハマっているだけ」と感じた。受験の為の詰め込み教育ではそこまで踏み込まない。その論法を覚えるだけで、疑問を取り上げる気などサラサラないのだ。

「数学の点の定義は位置だけを持ち面積・体積は持たない」とされていたが、それでは量子力学や統一理論の数式に∞の解が出てきて行き詰った。結局、「点には最小限の体積が無ければ数式は自然現象を記述出来ない」ことが判ってきた。論理学は「手持ちの操作記号の範囲内で納得しているだけ」で、その外側から把握する能力はない。手に負えない現象に出会った時にしか操作記号を増やす必要性を実感しない。結果として、手持ちの操作記号のみで現実に対処しようとして支離滅裂な事態に落ち込むのだ。「論を張って妄想に住む」・「論を張って虚構に住む」ことになる。確信と疑念は同時に持たなくてはならない感覚なのだろう。「AB=BA」は全現象に通用しない。現在の自然科学では「AB≠BA」がなければ自然を描写出来ないのだ。今日では「観測」が最先端となり、「数学的演繹」は地位を下げている。実在と論理や操作記号は密着している。今後は「観測からの帰納」と同様に「仮説からの演繹と観測の一致」が重要性を増すであろう。「実在可能性」は実体がないと思いがちだが、「仮定・仮説」にも実体まで達する力はある。ここを忘れているから、やる事なす事マンネリ化し、現状に絡め取られてしまうのだ。

24  言語力低下が進んでいる このことに注目しだして以来、誰かと話しをしている間でも、それがどの程度の言語能力で行われているかを意識するようになった。日常生活の場と仕事の場とでは異なるが、医師と患者、研究者同士、議会でのやりとり、報道での言葉の深度、多様な職域での会話レベル、打ち合わせレベル、等で著しく低下しているのを感じる頻度が増えている。結果、人と人の嚙み合わせが浅く、その浅さ自体に気付いていないケースが多い。今後、指標が必要になるように思える。話の場で「今日はレベル7~8で進めます」とか「5以下でかまいません」という確認が必要となろう。あるいは「今日の会議はレベル9以上でお願いします」、「今回はレベル7以下のひとは退席してください」という処から会話を始める。無意識的に合意していて上記のような確認はしないと思うが、諦めるか、イラつくか、最初から相手にする気をなくしている場合もあろう。5~7程度の会話が突如9~10に展開する場合もある。こういう時は手応えを感じるものだ。逆に一気に低下していく場合もある。不快な相手と両者が思うか、両者とも気付かないか。「聞くに堪えない」「話す気になれない」「その場が耐えられない」となると、レベルの差を埋めることが出来ない状態だ。「暗黙の確認」があるのは確かだが、「レベル差の意識すら出来ない」のが現状だろう。同レベル、同類は自然と集まる。「低は低と」、「高は高」と、「怠惰は怠惰」と。人は何気なく人を選別するものだ。ここで無理をすると身体を壊すか精神的ストレスがたまる。こういう状況は教養の差とかではなく、進化論的な分岐の問題と思える。類の分岐が顕著に進んでいる。

地球環境に適応している生命体は、環境をどう利用しているかで膨大な種が存在している。種が増えるのであって一つの個体の中に全てが統合されている訳ではない。多様な適合性を一個体に共存させているのが高等生物だ。

意識世界においても同様と思われる。多様な能力は一個体に表現されるのではなく、別々の個体に分岐していくと思われる。「住み分けは差別ではなく、多様性を維持する手法でもある」。人間同士の争いは「共喰い」ではなく、別種として「住み分け」が実現していない結果であろう。こういう考え方の対局にある考え方が「グローバリズム」指向、或いは「覇権」概念だ。ここが問題の震源地であり、ここを認識できない意識はナンセンス、あるいは無能の域をでていない下等性の現われであろう。意識世界の多様性を一個体に表現できるほど、人類は進化していない。住み分けに進むのか、包括に進むのか、Complication 、縺れているのが現状だ。住み分けの方が容易であるが進化は止まる。多様な意識を一個体内で包括する方向は高等への進化だ。残念ながら人類は未だにその能力を身に付けていない。

進化への能力が未だに無ければ、それを自覚し、先ず住み分けを実現すべきであろう。そこで落ち着きを確保し、それから「一個体の内面に多様性を如何に同居させるかを考える」のが筋、道理であろう。無能さの自覚がない者は、一気に手に入れようとする。これは無理な話しなのに、そこに向かって暴走する。無能を自己証明している。この段階で行為に走る現在の人間は愚かさの極みだ。

25  倫理と美はひとつである ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(6・42)に書かれていた。この箇所は訳者注釈で補足(111)されている。「倫理学と美学が同じものであるとすれば、その理由は、倫理と美がその根底において等しいものであるからにほかならない」と。

ここを自分流に解釈すると次の様になろう。形而下は物質世界の存在を問題とする。見える・聞こえる・寒暖などの認識で先験的に備わっている感性であり、倫理はこの領域での感性であろう。一方、形而上は意識の世界のを問題とし、美的認識も先験的に備わっていると思える。「根底において等しい」といわれるのは、生まれたばかりの人間が、そういう感性を備えている事を指摘しているからであろう。私の意識は美術から入り倫理に至った。「倫理の美」は同じ意味の繰り返しであるが、知覚する世界の物質性と内面性の差があるだけで、「二つは一つ」、相互に関連しあい、同時に存在するものでろう。これをヴィトゲンシュタインは「倫理と美はひとつである」と表現している。「根底」とは「先験的感性」「生まれ持った感性」のことであろう。現実の状況は倫理が狂っている。美意識も狂っているということだ。複雑性を統合し意識を持つに至るまで進化してきた自然力なのに、意識は高度な生命力を発揮するに至らず、開放的秩序を構築する前に自滅する。意識は授かったが、「根底に位置すべき能力の何かが抜け落ちている」ということだ。人類は「絶滅危惧種」というよりは「辛うじて生きている絶滅種」。

26  心境を変えた光景

     

スーパーへ買い物に行くいつもの道筋。ふと目に入ったのが剪定された枝をゴミ出しするために置かれていた枝。作業をし始めたばかりの様子で、ご自宅の入り口に置いてあった。日常的な視線で目に入ったのだが、「ん・・・面白いな」。帰り道にその家のチャイムを押し、未だ手の付いてなく長さもバラバラな枝の山からも、貰えないかとお願いし快諾された。ゴミ出しの規則では葉の付いていない枝は1メートル以下直径10センチ以下。帰宅してから準備をして出かける。5分もかからない距離。L字型のシンプルな買い物カートに4束積み込み一旦持ち帰り、更に1束頂いてきた。全部で35キロほどだろう。食い散らかしたままでは申し訳ないので、残った枝をゴミ出し出来る様に3束纏めておいた。帰宅し部屋の中に山積みにした状態が作品コーナーにある「Complication 2024-2」。この枝を使用して作品を創ろうと考え見つめていた。枝の山をどう認識して作品にするかの方向へ気持ちが移行した。当初この枝を何某かの表現の材料に使用と思っていたが、どう使うかこれからの作業・・・と考えて多少のアイデアも浮かんできたが、この方向に意識が動くのは「マズイ」と気付いた。

切り取られた枝・樹木・幹は加工され柱や合板となったり、あるいは燃料に、あるいは廃材として焼却する。そういう方向で我々は木を見ている。剪定する前はその木は生きていたことを忘れてしまう。自然の一部として自宅に植え、鑑賞し癒されていたであろう。当初植えた木は成長し、道路側にはみ出し、あるいは自宅の壁と接触しだしたのかも知れな。一般的に言えば、木は加工され「素材」と認識され、人間の目的に適合する様に使われる。木だけではない。人が何かを作る行為において「素材という概念」で利用する。コンクリート・鋼材・銅線・プラスチック・石材から繊維・塗料・洗剤・化粧品にいたるまで、全て元をただせば天然・自然から分離し持ち出し加工したものだ。ガラス・アスファルトも同様だ。地球上から人工物を除いたら、何が残るかを考えれば、地球上はいかに人工物だらけか判る。

たとえ作品に利用したとしても、主眼は表現内容であり、木が持っていた生命力全体ではない。ここに気付いてからは、目に飛び込んでくる風景が一変した。ことごとく人の手で作りだされたものだ。地中海沿岸の優美な石造りの街並みも、木造建設物も、神社・仏閣・仏像に至るまで木は素材だ。自動車・鉄道・船舶・航空機からコンピュータ・・・火力発電所・・・原発・・・武器・・・核兵器。人口衛星・・・宇宙船・・・。メガネ・・・電子顕微鏡・・・最先端実験観測装置・・・。食べ物も「食材」。加工食品・包装・添加・・・。医療においても薬から手術機器・X線・CT・MRI・ガンマナイフ・レーザーメス・・・。

人文系においても同様だ。音楽においては楽器。美術においっても画材・石材・木材・・・レーザー光線・・・LED・・・コンピュータ・・・。文学においては指示名称・操作記号・修飾語・修辞学・・。政治体系・・・法体系・・・経済体系・・・。

人類とは何かを作りだす動物と定義するなら、何でも創り出す動物と定義するなら、「素材」がある限り、致命的環境破壊や致命的兵器で死滅するまで作り続けるだろう。内面に目をむければ、有る事無い事なんでも創り出すだろう。人間の意識や感情や概念や論理性や知恵や規範もすべて「作り物」なのでは・・・。自然科学においては対称性があり、物質は姿を変えても対称性によって総エネルギーは変化しないとされている。しかし人工物の場合、「利用するエネルギー」はその一部でしかなく、他は破棄される。「破棄エネルギー」も合計すれば総エネルギーは変化しない。未熟な人類は「利用可能エネルギー」しか注目せず、「廃棄エネルギー」は無視する。資源は枯渇し環境汚染は止まらない。何かを作れば作る程、人間の行為において意識される対称性は崩れる。「意識されるエネルギー」と「無視されたエネルギー」を合計すれば対称性の計算は合う。むしろ意図的に対称性を無視し利益や権力を手にしているさて、「Complication 2024-2」を観て、鑑賞者は何処までイメージを膨らませる事ができるか。未だ制作途中だが着地点が更に判らなくなった。

もう一枚の写真は近くにある「子の神(ねのがみ)神社」にあった一番大きな神木が、この様な姿になっていた。シンボルの大樹をこの様な姿にした理由が判らない。残された幹だけで約10メートルはありそうだ・・・。(2024年4月から5月の間に切られた。)何故???

27  井上武吉 

  
 
 

東京都美術館が新館会館10周年を記念して企画展を開催したのが1985年。各ジャンルから選ばれた作家の個展形式で、立体造形では井上武吉氏が選ばれた。その時の図録を昨年入手した。そこに「アトリエ」No.378(1958年8月)「個展によせて」(氏の最初の個展)に書いた文章がある。『・・・私にとって彫刻の形式などどうでもよいのです。だが私が彫刻家として動かしているものは現代という動いている時間の意識によってなのです。その時間と私の場を支えている空間との割目によって・・・作品が誕生したのです。この割目からもう一つの新しい彫刻の可能性が未知の現実にむかって実現化されるでしょう。だがそこには彫刻の可能性と、人間の不条理とが同時に同居しているのです。それらの調節の為めに時代独自の造形化(オブジェ)が奇妙な歩調で繰返されるのです。現代という社会構造の中に閉じ込められて機構化された人間性をその複雑な密室の壁から解放するためには何を破り何を再組織しなければならないのか。彫刻家の意識は常にそうした人間性を閉じ込めている密室の壁にむけられ、一つの窓を求めて合法的な造形のイメージを組織するのです』・・・この文章は井上武吉氏27歳に書かれてます。驚きです。何と健全な心だろう。

2024年になってから井上武吉氏の1996年の作品を知った。「福井県立音楽堂ハーモニーホールふくい」にある「my sky hole 97-3 風の門」「my sky hole 97-4 天と地を結ぶ柱ふくい」。ジョックを受けた。今までにない作風で「人間が一回り大きくなった内実」を見せ付けられた思い。これまでの作風には概念にしろ感覚や感情にしろ理屈が見える。しかし上記の2点にはそれがない。一段と人としてスケールアップしている。「許容しえる人間性の未だ知覚されていない領域が膨大にあることに気付いた」のだろう。超一流の更に上を見出し表現出来る力量は驚きだ。理屈が付き纏っていた作品の世界は「未だ追い付ける」と感じられたが、1996年の井上武吉氏には「追い付ける気がしない」。翌年の9月26日に心筋梗塞で亡くなられたが、新境地を見つけた直後だけに無念であったろう。広い意味での彫刻家として、他の停滞している作家達から唯一抜け出し大飛躍した「次元の違う人間性を身に付けた巨匠」「人間の領域を広げた人物」だ。(「福井県立音楽堂ハーモニーホールふくい」より井上武吉氏作品写真の使用許可を頂いてます。)

私は現在自分が生きている価値を見失ってる。人間力が違い過ぎる。この現実に私は後何日耐えられるだろうか。もう限界だ。(2024-05-07)。どうにもならない。

28  ナルシスト 人間らしき姿をした生き物の中で、最も精神を持ち合わせていない連中。「ナルシスト」分析論文を書いたら1巻では済まないだろう。政治編では独裁者は皆ナルシストだ。芸術編でも同様だが適切な総称が浮かばないほど変種も多い。全巻に共通する特徴は自己内省能力の致命的な不在。自己を疑う事を知らない自己肯定症。従って自身の醜さが自覚できない。そもそも自己苦悶の内面が存在してないのだ。快楽主義。自己陶酔。誇大妄想。これらの内面が外見に醜い程露出して他者が不快に感じていることすら自覚出来ない。要は、他者が嫌がることをすることが「快感という自己確認」なのだ。それしか知らない輩。虚勢を張れば張るほど、着飾れば着飾るほど、当人の思惑から外れて愚かさが増幅される醜さの極み。ナルシストには共通の隠喩がある。「他人の幸福は自分の不幸。他人の不幸は自分の幸せ」「信頼し合っている人同士の関係を壊すのは最大の快楽」「不意をついて精神的に人を犯す」・・・。ナルシスト同士は近づき「自分を複数化」して隠喩を共にする。

29  互恵関係 なぜ「戦略的互恵関係」というのか。器の小さい見栄張り。「戦略的」を付けて大人ぶってる無能者。実質的内容は空っぽだ。無を言葉にするとこうなる。正反対の連語は無。響きしかない。

30  極楽人 (極楽蜻蛉・ごくらくとんぼ)。生物の多様性を否定する人はいない。外界を見れば多様性は一目瞭然だ。そしてそれぞれの固有種は必要とする環境があれば世代を重ね生きている。これに反論し得ないだろう。ところが人間という生物は個々の環境の違いを認める以前に、人間という概念を作って皆同等と前提する。これほど異常な認識はない。人も環境によって影響を受けるのは全生物となんら変わりないのに。この先を書かなくても想像できるだろう。何処まで想像できるか、それがその人の生物的実体だ。(後日記)。「ゲーテ格言集より:人類ですって?そんなものは抽象名詞です。昔から存在していたのは人間だけです。将来も存在するのは人間だけでしょう。」人間の集合名刺は全て抽象名詞。それを盾にして統治する。個人を黙らせる卑劣な手法。

31  嫌な俗称作家 『タイプA』マルセル・デュシャン、篠田守男(ゲーテ格言集より:人間がほんとうに悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる)。『タイプB』森村泰昌、草間彌生(男の自己顕示欲、女の自己顕示欲。それ以外に内容がない。両者とも性的で気持ち悪い)。『タイプC』奈良美智、村上隆(問題意識がなく稚拙を売りにする)。

32  嫌な業種 金融全般、広告業界、建設ゼネコン、都市ディベロッパー、大手広告会社(電通。博報堂など)、事務機器押売販売、経済基盤を大手企業に依存しているマスメディア、国営メディア、官僚、政治屋(自分より能力のない人に、どうして投票しなければならないのか)・・・

33  厭な都道府県 ダントツで京都 「一見(いちげん)さんお断り」、金(かね)に汚い、金持ちに媚びを売る・・・

34  厭な国 日本 ポリシーがなく人間がコマイ。小心者が多く、小心者ほど自意識が強く問題意識が貧粗。自分を誤魔化す術がこの国では習性化している。従って二人称関係に滅法弱く、一人称に閉じこもるか、相手を三人称して逃げる。度量のない国民性。(他国の批判は自国民がすれば良い。それが出来ない国は国ではない。)日本をどのような国にするのか、そのポリシーを作る能力も気力ない。場当り的対処で汲々としてるだけ。

35  好きな俳優 笠智衆、

36  独裁への道 任期が2期と制限されている特定の選挙において、相応の人材がいないとして3期を「いたし方ない」と言って容認する論法は独裁への道だ。当初の任期期間中に後継者を育てられなかった責任を問われるべきであろう。人間の世界はこんなものだ。国政選挙、政党内総裁選挙を問わず同様。当選後、憲法や法律や党規約を修正し任期を変更するのはファシストの典型的な行動パターン。軍事政権・軍部クーデターは思考力を待たない人種で、これを差別するのは人間の当然の権利。

37  核の抑止力 過去の神話。現在は「我々は核保有国である」と公言し、いかなる選択肢も排除しないとして、通常兵器で侵略する。「核の抑止力論」を掲げた政治家はどう責任を取るのか。名乗り出て公職を辞する勇気もない。

38  島崎藤村 全般的にいって小説は好まない。無用な騒がしさを私は好まない。別格として藤村の「夜明け前」「破戒」には人の自然体の姿を感じる。誇張のない描写。心が浮足立っていない落ち着いた観察力には独特な静寂感がある。

39  カフカ 「変身」。虫に変身したグレーゴルに気を取られ、本筋を見失う読者がほとんど。作者が意図する主人公はグレーゴルではなく、支配人・父親・妹。支配人はサラリーマン社会の象徴。父親はそういう社会の常識的価値観の象徴。妹は世間に流されていく人の象徴。最後の数行にこの流民の姿が穏やかにしかし痛烈な社会批判として仕込まれている。「城」「掟の門」は開ける意志のない門。「巣穴」は人の内面描写。「万里の長城」は中国という民族の精神構造。カフカの精神の中心にあるコンセプトは「世間という罠」だと私は感じる。

40 リムスキー・コルサコフ シエラザード op.35(1888年作曲)レイフ・セーゲルスタム指揮、ガリシア交響楽団。この曲を聴き、あらすじを読むと、「Complication 2024-2」のテーマと共通するものを感じる。愚行と美的満足の精神的親近的底流をやはり感じる。人の内面の揺らぎは「電気的表現をすれば交流」であり直流的ではない。ヒトは巧みに自己を変換し変身し誤魔化し、愚行を善行にし、愚者を賢者にしてしまう。側から観察すれば愚者でも当人は賢者の自覚を持ち、自身の存在価値を疑う事無く堅持する。作曲者はこのような人の心の動きに対し「問いかけているのか」あるいは「批判しているのか」もしくは「美的な変身」として表現しているのか・・・この疑問が残る。「仮面をかぶったワーグナー」。

指揮者や演奏者は多義的な感情を理解しているから名演となっているが、「ブラボー」と叫ぶ聴衆は・・・問いかけを理解しているのだろうか。演奏の完成度の高さに感動しても、作曲家の意図に関して「ブラボー」と反応しているとは思えない。演奏が終わったら聴衆は長い沈黙に引き込まれる・・・これが本来の鑑賞であろう。鑑賞者は往々にして空虚に反応する。無自覚にハッピーエンドに酔い、愚行批判への道筋を群衆心理で忘れさせる。皆で酔えば「ブラボー」なのか?

41 悪法 「持ち株会社法・金融持ち株会社法」「個人情報保護法」「大規模小売店舗法」。抵抗感を抱かせずに法律を先ず制定し、その後、改正を繰り返せば「悪法」が法を盾に世界を締め付ける。

42 宮崎駿  BSで最新作のドキュメントを偶然見て、「風の谷のナウシカ」(全7巻)を入手。映画化されているのは第2巻までだ。今迄、漫画やコミックを買ったことがない。この物語では人類は1000年周期で滅び再生するという設定だが、最近読んだアメリカかヨーロッパの科学・哲学者には1億年周期で現在は25回目(?)の再生の時という記述があった。比喩的表現だが何か説得力があった。特にナウシカの7巻の192ページから最後にかけて、名言の連発がある。著作権の問題があるのでそのまま記載出来ないが、①「皇帝は何故ほろびたのだ!!」「原因は彼の失政ある」「失政は政治の本質だ!つまらぬゴタクはもういい!!」「私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている」③「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だから・・・」④「生命は光だ!!」「ちがう・いのちは闇の中またたく光だ!!」⑤「私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる・・・私達の神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ」⑥「気に入ったぞ お前は破壊と慈悲の混沌だ」⑦「ひとつだけ父の忠告をきけ 王宮は陰謀と術策の蛇の巣だ ゴミの如き王族、血族がひしめいておる・・・だがひとりも殺すな ひとりでも殺すとわしと同じに次々と殺すことになるぞこの辺りがヤマ場であろうが、③には疑問を感じる。上記の宮嵜駿の作品のメインテーマに対する私の反応は「Complication 2024-1」と「Complication 2024-2」になろう。「風の谷のナウシカ」(全7巻)の存在を教えてくれた人に感謝します。

43 養老孟司 「ヒトの壁」 理解と解釈の違いの文章は明快。社会にとって「安全パイ」的な知識人だから、メディアも安心して扱う。高齢となり余命と向き合う様になって「本音」を漏らす様になっている記述は面白い。p73・東京大学総長が法学部長に「大学の総則と各学部の規則の中にほぼ同じ文面がある。ただし語尾が少し違う。こういう語尾の違いは法学部的には解釈が違うんでしょうね」。法学部長は開口一番「解釈せよと言われれば、いかようにも解釈は致します」・・・養老氏の文章「これが東京大学法学部の基本であるらしい。官僚が法律を作る時には、いかようにも解釈できる表現になるように鋭意努力するのであろう」。・・・・・こんな社会で我々は暮らしている。海外から見れば「日本人は何を考えているか理解できない」という。インド・中国・日本、各国の特徴を言い表す日本の部分は「日本人はウソをつく」が常套句。その本丸が東京大学法学部だ。ちなみにインドは「ありもしないことを言う」、中国は「全てを誇張する」となっている。上述の法学部の話しを読んで日本が三流国である理由が判った。

44 船越保武  戦後日本具象彫刻の第一人者。正統派、心で把握し造形する抜群の力量。一度対面したことがあるが超一流作家に共通する構えの広さ・深さがあった。次元の違う静かな人格者。YouTube・画像からのコピー(著作権がある場合、画像は削除します。URLから閲覧可能。舟越保武 - Wikipedia)如何にも芸大的秀才。表現が一重でComplicationを感じない。

  

45 中国はひとつ  日本の田中角栄首相とアメリカのニクソン大統領は中国との国交正常化交渉において、中国側が提案した「大湾を含め中国はひとつ」を承認すれば正常化に応じるという条件を承諾した。田中角栄とニクソンは経済界の支持基盤を強固にするために条件を呑んだ。中国側は「一国二制度」をちらつかせ、「中国はひとつ」という大目標を明確に勝ち取った。日本とアメリカの両国は民主主義や多様性社会という価値観を売ったのだ。

これがその後の中国の対外姿勢に露骨に現れてきた。中国の独裁拡張路線を後押ししたのは、田中角栄とニクソンと背後にいる経済界であるのは明確だ。日本とアメリカの台湾問題に対する歯切れの悪さは、過去にしてしまった失政があるからに他ならない。

46 バーコード 商品製造国を識別する筈のバーコードは改変されている。以前、日本は49、中国は45、と直ぐに認識できたのに、今では日本の番後にも「45」がある。中国製を購入したくない人にとって、判断が不可能になる様に、中国側からの圧力、利益を得たい日本企業・商社からの圧力で、消費者は選択できなくなってい来た。経済と政治の癒着は諸悪の根源だ。

47 イスラム社会 政治空間を形成することが出来ず、その為に宗教空間を対象化する意識が芽生えなかった。多重的な意識空間というものを知らず、全ての場に宗教が被さっている。では、真に政治的空間を持ちえた社会はあったのか、これが疑わしい。自然は有機体を創り出し、意識そのものは自然が創り出したものだが、意識空間は人為的空間・人為的場であり、その出来の悪さは最悪に近い。一個人の範囲では優れた意識空間を実現している場合もあるが極めて稀であり、集団という空間において自然創造力に匹敵する空間・場は何処にもない。

48 嫌いな言葉・「愛」 「愛」という言葉・概念・感情は作為的で嫌悪感を覚える。皆が勘違いしている「魔法の呪文」。では何と言い換えるか。それは「自然力」「私はあなたを愛してます」は滑稽だ。「私はあなたに自然力の素晴らしさを感じます」であれば納得できる。「祖国愛」という表現は最悪。「祖国が素晴らしい自然力を持っているかどうかが問題」であろう。「民族主義」も同様。「国家反逆罪」に至っては話にならない。「国家」と言うだけで何が正当化し得るのか。「主権」を主張して、何を持って判断基準としているのか。「主権の侵害」と言う前に、「その主権は素晴らしい自然力を持っているのか」を自問すべきであろう。「忠誠心」・・・その根拠に「素晴らしい自然力」があるのか?

49 「苦しみ」と「絶望」の違い 意識の違和感を解消しようとして「死ぬほど苦しむ」という感覚と、「死ぬほどに絶望する」という感覚とは異なる様に思う。「苦しみ」の方は違和感が解消される方向性がある程度見えている。一方「絶望する」は全く先が見えてなく「お先真っ暗」の心境だ。個人差によってこの状況をどう自覚するか違いがあろうが、私の場合「絶望型」だ。それも極度な絶望感に陥る。「何かのきっかけ」で解消できた場合、より異質なものが姿を現すのは「絶望型」の方だと思う。一方の対処法しか出来ない現実からすれば「手前みそ」な感想だが・・・。苦しみは枠に囚われている。絶望は枠からはみ出している。

50 相対化の間違い 「精神と肉体」という相対化は不毛な分割だ。肉体は人が一切手を下していない自然の創造態だ。問題は精神をどう位置付けているかから発生する。「意識能力は肉体と同様に自然の創造態」であるが、「意識が機能する形式は人為態」と言えよう。「自然物と人工物」を共に肉体から区別し両者とも「精神」とする意識構造から混乱が生じる。自然創造態は存在可能性を実現している実体力がある。ここに足場をおいている限り「性善説状況」となる。しかし、人工的な意識運動は自然創造態に足場をおくことから遊離しだす。この状態から「性悪説的状況」が生じる。自然力に反する行為はここに芽吹く。倫理とは自らを創り出した自然力に反する行為をしないという概念だ。価値観の問題ではなく、存在を与えられた法則に対し謀反を起こさない、企てないということだ。現状、人為は自然力を裏切っている。

51 ブルーノ・スネル「精神の発見」 (1896~?)執筆期間 1929~1955 副題:「ギリシャ人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研究」。原書翻訳(1974)。現在再読中。高度な内容。精神には多様な形態がありそれを如何に発見してきたかがメインテーマ。その延長として新たな精神を如何に発見するかというテーマがある。主観的な書物ではない。学問的で冷静。しかしテーマがテーマだけに興奮させられる。本書と比べればニーチェの「悲劇の誕生」は子供騙し。学問と呼び得る活動は「高度な才能」がなければ出来ないことを思い知らされる。多くの「学者先生」(古風な表現だ)は学問の真似事をしているに過ぎず自力で開拓する能力がない。大学教授のほとんどはこのレベル。芸術においても真似事と主観的独断の範囲を脱し得ず「志が低い」。商業主義での評価は学問的判断の基準に程遠い。自分の日常において精神の活動範囲が如何に狭いか突き付けられる。

52 脳ジャック (造語)。自然力で創出された思考に関与する脳神経ネットエワークが人為的刺激によって変態するプロセス。脳神経ネットワークに作用する知覚ウィルス。知覚刺激によって発症し他者への感染力が強い。自己ネットワークに対する書き換え力は他者感染力より強くネットワーク全体を支配する。抗原を認識出来なくなるので抗体反応は起きず、免疫力が発生しない。最終的には変態したネットワークが自己となり排他的抗体反応が発生する。感染する以前の状態には戻らない。回路を遮断したバックアップボックスを持つ以外にリセットできない。この用意が出来なければ脳神経ネットワークは不可逆的に変態する。別の視座から把握すればこれが「記憶のプロセス」かも知れない。